中途半端はだめなのよ

心ない聴衆に、
その崇高な理念を一蹴されてしまったふむ吉さん。
しかし、
聴衆が放った言葉を、
「心ない」といって片づけてしまうのは軽率です!
なぜ彼がそんなことを言ったのか?
その言葉に秘められた意味を探ってみましょう。

曰く、

中途半端は嫌われる

ベトナム語では、

dở dở ương ương tổ người ta ghét
[中途半端] [だけだ] [~の結果に終わる] [させる] [人々] [嫌う]

「中途半端は嫌われる」と言われれば、
まあそうだよな、
はっきりしないのはよろしくないよね、
と、おおよそ抵抗なく思うもの。

ならば、
「中途半端」とはどういうことなのか、
どうすれば「中途半端」でなくなるのか、
そこに焦点を当ててみます。

今回「中途半端」の意を持つ言葉は、
dở dở ương ương です。
dởương をそれぞれ繰り返しているわけですが、
それぞれどんな意味があるのでしょうか。
dở はまさしく「中途半端」を意味し、
ここで言う、人に嫌われてしまう最たる理由です。
ương には「頑固な、強情な」の意味があり、
ふたつを合わせて「中途半端なくせに強情な」のニュアンスになります。
ベトナム語では同じ語を反復することによる効果は、
無意味・強意・弱意の3タイプがありますが、
今回の反復は強意です。
dởương をそれぞれ繰り返すことで、
「中途半端なくせに強情な」の意を強めています。
言い換えると、
「どっちつかずなくせに人の言う事を聞かない」
という、なんとも人としてよろしくない姿が浮かびます。

さて、
ふむ吉がはたしてそんな人物(トラですけど)であるのかどうかはさておき、
今回のフレーズには、実は以下のような前置きがあります。

khôn người ta rái,
dại người ta thương,
dở dở ương ương tổ người ta ghét

「中途半端は嫌われる」というからには、
じゃあどうすればいいの?という問いの答えがあるはずです。

khôn người ta rái
[賢い] [させる] [人々] [恐れる]
dại người ta thương
[愚かな] [させる] [人々] [哀れむ]

よく似た構造で、
対になるような言葉がならんでいますね。
対ということは、
対極であるということです。

つまり、

賢いのなら、人を恐れさせるまで賢くあれ
愚かなら、人に愛されるまで愚かであれ
どっちつかずな強情者は嫌われる

これが今回のフレーズの真意です。

一聞すると心ない言葉を放った彼は、
やるのなら覚悟してやれ、
日本もベトナムも、
双方が幸せになるよう精一杯力を尽くせと、
そう言いたかったのです。
ふむ吉に、
心のこもったあついメッセージを伝えたかったのですね。

似たような意味を持つ、
こんなフレーズもあります。

hay học sang,
[良く] [学ぶ] [~すれば] [貴い]
hay
[良く] [働く] [ ~すれば] [持てる]

あえて訳さずとも、 もうメッセージは汲みとれるはずです。

やるのなら、力の限りちゃんとやれ

ベトナム人がつむいだ智慧のことばでもって、
当たり前のようで忘れてしまいがちなことを、
聴衆の彼は気づかせてくれたのですね。

ふむ吉さん、
別に街頭演説なんてトラらしからぬことをしなくても、
その風貌じゃ嫌でも目立ちます。
人の目に触れることは、
そんなに重要なことじゃない。
大切なのは、やるか、やらないか、それだけです。

ファイト!!
ふむ吉さん!

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