遠く離れたオスのせい
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互いに愛を誓ったはずの恋人(恋トラ!?)に、
紙切れ一枚で別れを告げられてしまうふむ吉さん・・・。
シチュエーションだけを客観視するならば、
ひとえに同情しかないはずの場面でも、
どこか嘲笑のまなざしをむけてしまうのは、
やはり彼の愛すべきキャラクターのせいである、
そんなふうに、
そっと言ってあげたくなる一幕です。
彼が経てきた恋愛体験について、
本当はとっても知りたくなるところですが、
それは別の機会に譲って、
本題に入ることにしましょう。
とりまきのひとりがつぶやいた言葉に、
「遠距離なら、心も離れやすい」とありました。
これこそが、
今回のキーフレーズなのです!
さっそく、ベトナム語を見てみましょう。
[遠い] [顔] [遠い] [心]
それぞれの語の意味を見れば、
全体の意味は容易に想像できますね。
顔が遠ければ、心も遠い
つまり、
互いに顔を合わせることがなくなれば、
親密さも失われていく
という意味です。
現在遠距離恋愛中の方には何だか申し訳ないのですが、
悲しいかな、人間とはそういうものなのかもしれません。
全く同じニュアンスの表現で、
次のような言葉もあります。
[遠い] [顔] [隔たる] [心]
文の構造は、上のものと同じです。
こんな言葉ばかり見ていると、何だか切なくなってきますが、
人間ですから、というよりは、
生き物ですから、
普段目に入らないものは意識の中で存在感を無くしていくものでしょう。
しかし私たちは人間だからこそ、
遠くの存在に想いを馳せて、
ずっと心に留めておくことができる、
そう言うこともできるのではないでしょうか。
これらの言葉は、
そんな人間の二面性を捉えたフレーズなのかもしれませんね。
さて、
私たちの心の話はこれくらいにして、
ベトナム語についてもう少し詳しく見てみましょう。
今回出てきた、
という語について、「遠い」と意味を書きました。
「遠い」を日本語の品詞でいうならば形容詞ですね。
ふむ吉の置かれた状況を表すならば、
「遠く離れたから!」とか、
「遠いまま放っておいたから!」とか、
「遠くなったらそんなもんだよ」のように、
いずれも文の構造における品詞としては、動詞ではありません。
しかし、
ベトナム語の
ベトナム語の特徴として、
「修飾は後ろから」という大原則はご存じの方も多いかと思います。
形容詞は修飾語のひとつですから、
たとえば、
「遠い場所」という場合、ベトナム語では「場所 + 遠い」のような語順になります。
一方、
日本語で「遠い」を動詞表現として言うとき、
「遠くなる」というように、
「なる」という動詞を付け加えます。
しかしベトナム語では、
語の形はそのままで、
+ 場所 のように前に出すだけで動詞の働きをして「遠くなる」という意味になるのです。
ベトナム語は語形変化をしない言語ですから、
同じ形のままで形容詞になったり動詞になったりするという点は、
語形変化する言語を母語に持つ外国人にとっては、
ちょっと慣れない特徴ですね。
今回ご紹介したフレーズでは、
これはよく用いられる表現で、
[遠い] [家]
とすれば「家から遠く離れる」という意味になり、
とすれば言うまでもなく、
暑い夏にはできればそうでありたい、
「(丸々と太って見ているだけでも暑苦しい)ふむ吉から遠くはなれる」
という意味になります。
「~から遠く離れる、~から隔たる」という意味になるのです。
せっかくなので、
動詞ではない
[話す] [遠く]
これで、「遠回しに言う」という意味になります。
「話す」という動詞の後ろで、「遠回しに」という意味を付け足しています。
この言い回しを使った慣用表現で、
次のようなフレーズもあります。
[話す] [遠く] [話す] [近く]
遠回しにも言うし、直接的にも言う、
「つまり相手の気持ちをおもんぱかっていろんな言い方をする」、もしくは、
「本意を悟られないよう回りくどい言い方をする」という意味で、
結局は「遠回しに言う」という意味合いが強い表現です。
最後にもうひとつ、こんなことわざもあります。
[売る] [兄弟] [遠い] , [買う] [隣人] [近い]
直訳すると、
「売るなら遠くにいる兄弟に、買うなら近しい隣人から」
という意味になりますが、
「遠くにいる親類よりも、近くにいる隣人」が本意です。
「売る」「買う」を使っているところがおもしろいですね。
売るという行為に求めるのは懐があったかくなることだけで、
後であれこれ文句を付けられたくないから遠くの、
しかも何かと大目に見てもらえる可能性が高い親戚に、
買うとなったらお金が出ていく行為だし、
不具合があったら客として文句を言いやすい他人に、
というような意味を込めた一種の言葉遊びとも言えるでしょう。
要するに、
たとえ他人であっても、
近くの人間との交流の中にこそ、
自分を助けるイベントがあるんだという格言です。
決して、
遠くはなれてダメになった誰かさんを馬鹿にしたい訳ではないのですが、
空間をとびこえる心を持つ私たち人間も、
やはり身近で目に見えるものに頼りたくなるものだし、
またそうするほうが自然なことなのかもしれません。
これは私の主観なのですが、
「家から遠く離れる」という意味のこの表現をベトナム人が口にするとき、
決まって彼らの表情は暗く、寂しさで溢れているように感じます。
家族をなによりも大切にするベトナムでも、
経済の発展に伴ってか、
実家のある故郷を離れて働く若者が増えているようです。
親御さんに話を聞くと、
たとえ遠くにいても、子供が立派になるのなら寂しくないよ、
そう語る笑顔はどこかぎこちないような気がします。
私も故郷を離れている身なので偉そうなことは言えないのですが、
人間という霊長類が現れてから絶滅するまで、
その歴史のしあわせ度を測るメーターのようなものがあるならば、
少なくともこの千数百年ではない、
家族が離れて暮らす必要性なんて別になかった時代こそが、
その目盛に高い数値を刻んでいるのかもしれません。
しかし!
こんな身も蓋もないことを考えていても、時間は進むのみ、
ふむ吉もわたし達も、後戻りなんてできないのです!
彼は鼻を鳴らしながら次のメスを探して、
わたし達は思いっきりしあわせを探して、
「今」から遠く離れないように生きていきたいものですね。
(おわり)
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