木の魚を喰うやつら
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ホーチミン市に遊びに来てまで、
しかも、
美しいコロニアル建築が目を惹く人民委員会庁舎の前で、
なんとも見栄えのしない仲を露呈したふたり(二匹?)。
そして、
穀物が主な飼料であるはずのブタと、
肉を喰らってなんぼのトラが、
おそらく互いを気に食わないという理由のみで、
落ちていた魚を奪い合う・・・。
そんな異様な光景を前にしながら、
おどろくよりも冷静に、
ケチなトラを一喝した謎のおじさん。
いろいろと、
どうでもいいような不思議が交錯しているようですが、
謎のおじさんの放った、謎のひと言、
これこそが間違いなく、
どうでもよくない、
今回のキーフレーズなのです!
[バッキ―] [食べる] [カーゾー] [木]
バッキ―は木のカーゾーを喰らう
さて、
なんだか意味の分からない単語がならんでいますが、
ひとつずつ見ていくことにしましょう。
まずは、「バッキ―」。
往年の阪神タイガースファンなら誰もが知っている、
1964年のシーズンに29勝という今では考えられない成績を上げた伝説の助っ人、
ジーン・マーチン・バッキ―!!
外国人投手として初めて沢村賞を獲得した彼の投球は、
そのむきだしの闘志からチームメートも恐れたほどで・・・
って、
違いますよ!
バッキ―はバッキ―でも、
ベトナムのバッキ―ですから!
それに、
ベトナム語のバッキ―は特定の人物を指す言葉ではなく、
あるくくりの不特定多数の人たちを指す言葉なのですよー!
さて、気を取り直して、
その「あるくくり」とは、一体何なのか?
これを理解するためには、
少々歴史をさかのぼらねばなりません。
ご存じのとおりベトナムは、
ベトナム戦争の折り国土を南北に分かたれ戦いました。
1874年に南ベトナムでのフランスの主権が認められ、
1976年に戦争終結によって南北が統一されるまで、
ベトナムの北と南は分断された状態でした。
ゆえに、
北と南の違いはそりゃあ大きい、
と、もはや言ってしまいたいところですが、
これは安易すぎる判断です。
ベトナム全土が初めて統一されたのは、
1802年、阮(Nguyễn)朝成立のときであり、
現在の版図をもってひとつのベトナムであった時は、それまではなきに等しく、
1874年に南の主権を奪われるまでの70余年間、
この70余年と、
1976年の戦争終結による統一から現在まで、
これらを足した100年ちょっと、
この100年ちょっとの間しか、
ベトナムが一つであったときはなかったのです。
そのことを鑑みると、
北と南の間に大きな違いがあることは明らかで、
一方が一方をある種の嘲笑をこめて呼び表すことば、
あるいは、
悪気はなくとも、
歴史的・潜在的に揶揄して指し示すことば、
そんな言葉があっても何ら不思議ではありません。
その言葉こそが、
「バッキ―」なのです。
「圻」は「さかい目・境界で区切られた部分」を意味し、
「北圻」で「北部」を意味しています。
「北圻」があるなら必然的に「中圻: Trung Kỳ」も「南圻: Nam Kỳ」もあり、
「北部ベトナム」「中部ベトナム」「南部ベトナム」をそれぞれ指します。
ただし、
これらは歴史的には古い表現であり、
現在ではあまり用いられません。
しかしながら、
「北圻」つまりバッキ―は、
今も多くの人間が知る今回のフレーズの中に、
しかも「人」を指す意味のことばに姿を変えて残っているのです。
もうおわかりですね?
今回のフレーズのバッキ―は、
「北部の人々」という意味を持っているのです。
「木のカーゾー」とは一体何なのでしょうか。
「木」のベトナム語は cây ですから、
分からないのは「カーゾー」、つまり cá rô です。
cá は魚類を指す語なので、
cá rô で魚の一種、
見た目は日本の黒鯛(チヌ)に似た黒っぽい白身の淡水魚で、
北部人が好んで食べる魚を指しています。
調理法としては、
油でカラッと丸揚げにして、ヌックマムにつけて食べることがほとんどです。
「r」の音は北部方言ではザ行ですが、 南部方言ではラ行になるので、
南部では「カーゾー」ではなく「カーロー」と言います。
これに、
「木」を意味する cây がついて、
「木のカーゾー」、つまり「木の魚」という意味になります。
でも、
一体どうして「木」なのでしょう?
この謎をひもとくには、
ベトナム人の特性、
それも地域による特性を見る必要があります。
一般的に、
気候の変化が激しく、厳しい風土の北部の人々は、
その環境からか否か、
我慢強く、勤勉で、倹約家が多く、疑り深い、
常夏で季節も雨期と乾期のふたつしかない南部の人々は、
同じく環境故なのか、
明るく、大らかで、財布の紐が緩い、
などの違いがあると言われています。
(ちなみに気候風土の観点では中部も北部の一部であると言えます)
そんな相違のある人々が、
ひとつの地で混在するとどうでしょう。
実はベトナムの歴史の中で、
それも極めて最近の歴史の中で、
大量の北部人の南部への移動があったのです。
ひとつは、
1954年のジュネーブ協定締結以前までに、
フランスによるプランテーションの労働者として連れてこられた北部の人々、
ひとつは、
ジュネーブ協定により南北が分断した際、北の共産政権から逃れた北部の人々、
ひとつは、
1975年のサイゴン陥落による南部解放以降に入った北部の人々。
上述のような特性の相違をもって、
しかもそれが歴史という抗えないうねりの中にあれば、
南部の人々にとって北部人がどう映ったか、容易に想像がつくでしょう。
「我慢強く、勤勉で、倹約家が多く、疑り深い」北部人は商売に長け、
「明るく、大らかで、財布の紐が緩い」南部人は、
結果を求められるビジネスの場面での敗北を味わい、
北の人々を「ケチ」や「拝金主義」などと嘲笑することになったと言われています。
私が初めてベトナムを訪れたのは中学一年の時、
ベトナム南部ホーチミン市でしたが、
その折に世話をしてくれた、
現地在住の日本人に教わった話を今でもよく覚えています。
「南部の人は北部の人を、
本物の魚を食べるのはもったいないから、
木で作った魚にヌックマムを塗り、
それを舐めながらごはんを食べる、
それくらいケチで金を貯めたがるやつらだと思っているんだ。
でも、歴史がそうさせたんだよ。
彼らに悪気があるわけじゃない、
おれはそう見てるけどね。」
これが有名な決まり文句、
つまり今回のフレーズに則った話だということはだいぶ後になって知ったのですが、
この話も15年以上前のことなので、
今もなお方々でそう言われるのかどうかは怪しいところです。
事実、
厳重な規制のあった国内旅行が1993年に自由化し、
地位や職業、出身を問わず誰もがどこへでも行けるようになり、
テレビやメディア網の普及によって、
北では南の音が、南では北の音が、
なんの不思議もなく聞こえる時代になり、
今ではインターネットの普及により、
言葉のみならず文化や風潮までもが、
特に未来を担う若者世代の間で、融和しつつあるという実感があります。
しかしながらやはりベトナムのそれは、
言葉や食文化、マナーや気質などカテゴライズに共通性はあっても、
日本でいう関東と関西のような違いとは比較できない、
決定的・根本的な相違があると考えることもできます。
歴史上、
何千年にもわたって違う政体の支配下にあった地域どうしの人々の間に、
どのような違いがあるのか、
私たち日本人には想像しがたい事象でしょう。
地方から東京に出て、
半年もしない内に東京ことばになるような例を、
ベトナムで探すのは困難です。
北部の人は南部へいっても北部のことばを忘れず、
そのまた逆もしかり、
中部の人々にとってもそうです。
ただ、
あくまで私個人の現在の実感としてですが、
南部方言の番組を楽しそうに鑑賞する北部人がいて、
北部方言の流行のV-POPを、そのまま北部方言で口ずさむ南部人がいて、
中部のおいしい食べ物を北でも教えてやってくれと自慢する中部人がいる、
そこには互いを嫌悪しているという雰囲気はなく、
むしろ互いの違いを尊重し、
自らの特色に誇りをもっている、
そんな風に受け取れるのです。
(もちろん、嘲笑を伴って語る人もいますが)
歴史を知らない若い世代には、
「バッキ―」という言葉はもう必要ないのかもしれません。
「違うこと」を肯定したその先へ、
今の世代の目は向いているのかもしれません。
いい意味で「頑固な」違いが消えそうもないベトナムの各地域。
それをうまく活かせば、
あえてグローバル化しない姿勢の文化や産業で、
長く人々を呼べる力を持っていると言えるのではないでしょうか。
バッキ―は木のカーゾーを喰う
この言葉から悪意が消えて、
あの人たちはあんなことをするからおもしろい、
この人たちはこんな風だから興味深い、
そんな具合に、
決まり文句が決まり文句でなくなるとき、
ベトナムは初めて、
民族意識レベルでの統一をみるのかもしれません。
ふむ吉とマロンちゃんだって、
きっと仲が悪いわけじゃないはずです。
ただちょっと、
過ごした環境が違うだけ・・・。
(おわり)
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