ベトナムの歴史

ベトナムの歩んできた道は、
他国からの侵攻と、
それらに対する抵抗運動の歴史であると捉えられます。
古くは、
漢に始まる約千年にわたる中国による支配、
その後も元による侵攻、
フランス軍による統治、
日本軍の駐留、
そして泥沼のベトナム戦争・・・。

ここではベトナムの歴史を、
ベトナムに最初の統治国家ができるまでの黎明期
千年にわたる中国による支配からの脱却までの北属期
中国との対立の末に阮朝成立に伴い「越南」の名を得た対北進南期
アヘン戦争から仏領時代をへてベトナム戦争までの近代史
の4つに分けて簡単に概説しています。

黎明期

ベトナムの領土はインドシナ半島を南北に走っています。
インドシナ半島に最初の統治国家ができる以前、
この地域の最古の人類の痕跡としては、
北部の現タインホア省で発見された約30万年前・旧石器時代の石器があります。
続いて紀元前2万年頃、同じく石器を用いていたソンビ文化の遺跡があり、
さらに紀元前1万年頃、農耕文化の存在の可能性があるホアビン文化が起こります。
そして紀元前3000年頃、
ベトナム最初の統治国家である文朗国が建設されます。
国を率いた雄王(フンブオン)の伝説は現在もベトナム人の間で親しまれ、
旧暦の3月10日は彼の命日として祝日となっており、
このころの神話や伝承も数多く存在しています。
その後紀元前800~300年頃に青銅器文化であるドンソン文化が起こります。
この頃に作成されたとされる鳥獣模様の青銅の太鼓は、
インドシナ半島の各地で出土しています。

いずれにせよ、
上記のような文字のなかった時代の歴史検証においては、
神話や伝承がその判断の基礎であり、
また文字出現以降の時代の権力者により、
神話や伝承それ自体がまさに文字によって書き換えられた可能性もあるので、
そもそも「史実」としての認定が困難な要素は多々存在しています。

また、
ベトナムの政治的イデオロギーにおいては、
古代の英雄による実績をアイデンティティーの規範とする色が濃いので、
新たな史跡などが発見されるたびに大きな論争を呼んでいます。
このように特にベトナムの古代史においては、
「史実」と「伝説」、
そして現代を生きる人々の「願望」が入り混じり、
歴史検証の問題は複雑化する一方なのです。

indochina インドシナ半島を南北に走るベトナムの国土。

北属期

紀元前3世紀半ば頃、北部ベトナムは甌貉(オウラク)国が支配していましたが、
中国の秦の始皇帝の時代に海南郡(現在の広東)に派遣されていた趙佗(ちょうだ)が、
自国の混乱期に乗じて建設した「南越国」により、
北部ベトナムはその支配下に置かれます。
南越国はその後漢によって滅び、漢はその版図を中部ベトナムにまで拡大します。

この後、中国は魏晋南北朝、隋、唐、五代十国、宋と形をかえながら、
ベトナム自身も交州、交州総管府、安南都護府として中国による呼び名の変遷を経ながら、
事実上1千年にも及ぶ中国による支配、いわゆる北属期が訪れるのです。

10世紀中国唐代末の混乱期に、呉権がバクダン川で中国軍を破り、
ベトナムは一応の独立をみますが、
依然ベトナムは中国にとって朝貢国でしかなく、
ベトナムも中国の宗主権を認めざるを得ませんでした。
自国では小王朝が乱立して主導権をめぐる争いが絶えず、
皮肉なことに小王朝の間で自国の正当性を担保したのは、
北の中国による承認でした。

また、2世紀頃にベトナム中部以南にはチャム族による林邑(ラムアップ)国が建国され、
7世紀以降はチャンパ王国と名乗るようになりました。
ベトナムが中国から独立した後、チャンパ王国へのベトナムからの侵攻は本格化し、
14世紀以降、王国は衰退の一途をたどります。

対北進南

11世紀、ベトナムには統一王朝として李朝が誕生しますが、
その後の陳朝、胡朝の時代にわたって、
ベトナムは自らを「大越」などと称したのに対し、
中国は19世紀の阮朝成立にいたるまで、
ベトナムを一貫して「安南」と呼びました。
胡朝の後、15世紀に黎朝が成立するまでベトナムは再び、
中国、明の支配下に入ります。
黎朝成立の契機となった中国との独立戦争に勝利した折、
独立宣言には「北」の中国に対し対等な存在として、
「南」の国ベトナムと書かれていましたが、
実情はやはり中国のいわば家臣として、
「安南国王」の称号を中国に乞うというものでした。

16世紀に入るとベトナムは南北に分裂し、
北部には依然中国の臣従として黎朝が存続します。
中部では黎朝から独立した阮氏がフエを中心に王国を建設し、
南へと勢力を拡大していきました。

18世紀の後半、
黎朝・阮氏の両国は、
現在のビンディン省の西山(タイソン)村から起こった大乱によって崩壊し、
その指導者であった阮恵(グエンフエ)は両国を統合し西山王朝を建て、
さらには中国の清朝やタイのシャムを次々に破りました。
このような功績から、
彼もまた、いや、雄王よりも明瞭な形で、
国民的英雄として史実に名を残したのです。
彼の死後、王朝は衰退し、
南北朝時代の阮氏の末裔である阮福暎(グエンフックアイン)によって、
阮朝が成立します。
阮福暎は南部から北伐を進め、
1803年中国の清に対し、「南越国王」の称号を請いました。
しかしこの要求はかつて北ベトナムを支配した「南越国」を想起させることから却下され、
代わりに与えられた名前こそが、
現在の国号に通じる「越南(ベトナム)」でした。

近代史

1840年中国清朝とイギリスの間で起こったアヘン戦争により、
ヨーロッパ列強各国による東アジア支配の幕が切って落とされました。

1857年ダナン沖でのベトナム軍軍艦への攻撃からフランスの侵略が始まります。
その結果阮朝ベトナムは解体され、
南部にはコーチシナ、
中部にはアンナン、
北部にはトンキンと呼ばれる、
それぞれ統治形態の異なる植民地となりました。
ラオスやカンボジアまでをも飲み込んだ広大な仏領インドシナは、
ベトナムの経済を再編し、
フランス本国への奉仕体制へと変化させました。

1925年インドシナ南部において、
ゴムのプランテーションのために20万人のベトナム人が移住させられた事実は、
後に映画「インドシナ」として描かれます。

1930年香港で阮愛国(グエンアイクォック後のホーチミン)によって
ベトナム共産党が創設され、同時にアジアでの民族運動が台頭していきました。
1940年、ナチス・ドイツによりパリが陥落すると、
日本は中国軍への物資補給ルート封鎖をフランスに要求し、
同年8月北部ベトナムへ軍隊を進駐させ、南へと侵攻を開始しました。
1945年日本軍が太平洋戦争に敗れ降伏すると、
1941年に発足していたベトミン(ベトナム独立運動)が一斉蜂起しハノイを占領、
同年9月2日、ホーチミンによりベトナムの独立宣言がなされます。
しかし、国際社会はこの宣言を認知せず、
連合国は日本軍の武装解除を名目に、
北部に中国国民党軍、南部にイギリス軍を進駐させ、
さらに同月中には南部にフランス軍が復帰し、
サイゴン(現ホーチミン市)は占領され、
ベトミン勢力と衝突を繰り返し、インドシナ戦争へと突入していったのです。
1949年にフランスは南部に親仏のベトナム国を建てる一方で、
北部のベトミン政府は中華人民共和国とソ連により承認され、
インドシナ戦争は当時の冷戦構造を反映し、
アメリカの介入を招くことになりました。
その結果、
北部にはベトミンによるベトナム民主共和国(北ベトナム)、
南部にはアメリカの後押しによるベトナム共和国(南ベトナム)が存在し、
ベトナムは完全に分断されました。
1960年には、北ベトナムによって南ベトナム解放民族戦線が結成され、
南ベトナム政権と衝突を繰り返すようになりました。

こうして、
1975年4月30日に北ベトナムがサイゴン政権を陥落させ、
ベトナム戦争の終結をみるまで、
悲惨な戦いが続くことになったのです。
そして1976年7月、
ベトナムは現在の名前と同じ、
「ベトナム社会主義共和国」として統一をみることになりました。

CIMG0798 フエ阮朝の王宮、午門。

阮福暎が中国から「越南」の呼称を「勝ち取って」から、
様々な場所で、様々な人々が独立を目指して動いた歴史の舞台。
彼らが目指したものは「南越」国でも「黎」朝でも「阮」朝でもなく、
間違いなく「越南」という名のもとの祖国統一だったのです。

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