ベトナムの通りの名前

ふむにちわ!

今回は、
ベトナムの通りの名前に焦点をあて、
通りの名前とその由来についてご紹介します。

ベトナムを訪れたとき、
誰もが目にする青く四角い看板・・・。
ベトナムでは、
道と言う道、道路と言う道路、
ありとあらゆる通りに名前がついています。

日本にも、名前のある通りはありますが、
すべての道路に対する割合ではベトナムと比べるまでもなく、
また、日本では多くが地名に由来するものですが、
ベトナムでは多くの場合、
地名ではなく、
人名がそのまま通りの名前になっているのです。

そんなベトナムの通り名の由来は、
次の3パターンに大分されます。

早速それぞれについて、詳しく見てみましょう。

歴史上功績のある人物の名前

ベトナムの歴史の中で功績のあった人物の名前は、
必ずと言っていいほど通りの名前になっています。
しかも、全国でそこだけという訳ではなく、
たとえばファンボイチャウ(Phan Bội Châu)通りなら、
ハノイにもホーチミンにも、
ダナンにもフエにもニャチャンにも、
ダラットにもホイアンにも、
様々な都市や地域で通りの名前になっています。

人名由来の通りの名前として、
特に有名なものをいくつか見てみましょう。

ファンボイチャウ(Phan Bội Châu)通り

ファンボイチャウ(潘佩珠: 1867~1940)はベトナムの民族主義運動の指導者で、「ベトナム維新会」を結成し、武器援助を求めるため1905年に来日しました。ベトナムの青年を日本に留学させる東遊運動を興し、ファンチューチン(潘周楨)とともに横浜に丙午軒という寮を建設しました。1912年には中国の広東でベトナム光復会を結成し、武力によるベトナムの解放を目指しましたが、上海でフランスによってとらえられ、一時は終身刑を宣告されたものの、 ベトナム国内の世論により恩赦、フエで軟禁されたまま生涯を終えました。

チャンフンダオ(Trần Hưng Đạo)通り

チャンフンダオ(陳興道: 1228~1300)は陳朝初代皇帝・陳太宗の兄の息子です。フビライ・ハン率いるモンゴル帝国軍の3度に渡る侵略を退けた武将で、誰もが知る国民的英雄です。「フンダオ」はその軍事的功績を称えられ、死後に与えられた称号です。

レータイトー(Lê Thái Tổ)通り

レータイトー(黎太祖: 1385~1433)は後黎朝大越国の初代皇帝で、中国・明朝をベトナムから撤退させ独立、ハノイ(当時は「Đông Đô:東都」)で帝位に就き、国号を「大越」とする黎朝を創始しました。彼の廟号であるレロイ(Lê Lợi:黎利)もまた、通り名として数多く見られます。

ハイバーチュン(Hai Bà Trưng)通り

ハイバーチュンは人名ではなく、光武帝率いる中国・後漢への一連の反乱(1~3世紀)の首謀者である、チュン(徴)姉妹を指します。ハイは2、バーは女傑を表す敬称詞で、ハイ・バー・チュンで二人のチュン夫人という意味です。

レタイントン(Lê Thánh Tông)通り

レタイントン(黎聖宗: 1442~1497)は上述のレータイトーの興した後黎朝「大越」の第5代皇帝で、レータイトーの四男です。黎朝の全盛期を築いたとされる彼の治世は、対外的にはチャンパ王国を退けて南進し、コーチシナ半島のベトナム化を進め、黎朝の最大版図を築きました。また内政面では中央政府に六部を設置しベトナム元来の慣習を成文化した「洪徳律例」を公布するなど中央集権制度の整備を行ったほか、土地制度や府県制度など地方制度も整え、彼の施行した均田制における検地の配分単位「公田: công điền」および集落単位「社:」は1954年の土地改革まで、500年もの間、紅河デルタの土地制度の礎となりました。

パスツール(Pasteur)通り

ベトナムの通りの名前に採用されているのは、ベトナム人の名前だけにとどまりません。ホーチミン市やニャチャンには、フランスの細菌学者パスツールの名を持つ通りがあります。世界に30以上あるパスツール細菌研究所もホーチミン市とニャチャンにあり、ニャチャンの研究所は細菌学や疫学の発展に貢献し、ペスト菌を発見したことでも有名なヤーシン(Yersin)が建設したもので、彼のもまたホーチミン市・ニャチャンの両都市にその名を冠した通りがあります。ちなみに両名の名前をベトナムでいう時は、「パスタ―」「イエルサン」のようにフランス語読みなのでご注意を。

歴史や文化など何らかの意味

次に、歴史や文化など、
何らかの意味合いが通りの名前になった例を見てみましょう。

コンホア(Cộng Hòa)通り

Cộng Hòa は漢越語で「共和」です。ベトナムの正式名称「ベトナム社会主義共和国」、Cộng Hoà Xã Hội Chủ Nghĩa の頭の言葉です。

ドンコイ(Đồng Khởi)通り

Đồng Khởi は漢越語で「同起」で、一斉同時蜂起を意味します。1959年から1960年にかけ、南部の農村地帯と中部の山岳地帯の住民が起こした、ベトナム共和国のゴ・ディン・ジェム(Ngô Đình Diệm)政権に対する決起に由来しています。ホーチミン市のドンコイ通りは市内のメインストリートで、1965年にフランスによりカティナ(Catinat)通りと命名され、1954からはトゥゾー(Cần Thơ)やブンタウ(Vũng Tàu)など、南部の街ではよく見られる通り名です。

トンニャット(Thống Nhất)通り

Thống Nhất は漢越語では「統一」です。ベトナムが歴史上、常に追い求めてきた概念で、様々な地方の街でこの名を持つ通りがあります。

カックマン(Cách Mạng)通り

Cách Mạng は漢越語では「革命」です。ホー・チ・ミンが結成したベトミン(ベトナム独立同盟会)が一斉蜂起してベトナム帝国(阮朝)を倒した革命を8月革命といい、ホーチミン市やダナンをはじめ多くの都市に「8月革命(Cách Mạng Tháng Tám)通り」があります。

バックダン(Bạch Đằng)通り

Bạch Đằng は「白藤」のベトナム語表記。1288年、上述のチャンフンダオがモンゴル帝国軍を罠にかけ焼き払った川が「白藤江」です。それ以前にも、981年には前黎朝の黎桓(Lê Hoàn)が中国・北宋の劉澄率いる軍に惨敗し、938年にはのちに呉朝を建国する呉権(Ngô Quyền)が中国・南漢の劉弘操軍を打ち破るなど、「白藤江」はベトナムにとって歴史的に重要なロケーションであり、ハノイの歴史博物館にはチャンフンダオとモンゴル帝国軍との戦いを描いた巨大な絵が展示されています。

クーアドン(Cửa Đông)通り

Cửa Đông はベトナム語で「東の門」、ハノイのタンロン遺跡の東側にある通りの名前です。同じ由来で北側には「北の門」を表すCửa Bắc という通りもあります。

ハンチエウ(Hàng Chiếu)通り

ご存じの方も多いかと思いますが、ハノイの旧市街には36通りとよばれる地区があります。36通り地区は13世紀頃から発展した商業地区で、出身村落ごと同業組合が特定の商区をもって存在していました。36は商区が36あったことに由来しており、ほとんどの通り名はそれぞれの商区が携わっていた商工業の名称に由来しています。例えば、Hàng Chiếuhàng は「品物」、Chiếu は「ござ」ですから、ござ類を扱っていた地区であることがわかるのです。36通り地区についての詳細はコチラをご覧ください。

通りがある土地の象徴的な名前

その通りがある土地の景勝やランドマークが、
そのまま通り名になっている例もあります。

ハロン(Hạ Long)通り

ご存じハロン湾の中心街、バイチャイ地区を貫く通りにある通り、ハロン通り。 世界遺産でもある景勝地ハロン湾への愛が感じられますね。

ファンシパン(Fansipan)通り

ベトナム北部ラオカイ省郊外の山間部、標高1560mにあるサパの街には、ファンシパンという名の通りがあります。サパの街があるのはベトナム最高峰ファン・シ・パン山(Núi Phan Xi Păngのおひざもと。山と通りで表記が違うのは、外国人への気遣いなのでしょうか。 土地の名前が通り名になっている例では他に、 ホーチミン市にハノイ通りという通り名があるなど、 外国人にとっては「え?」と戸惑ってしまうような例もあります。
最後に、「通り」という言い方自体について見ておきましょう。
日本語の「通り」にあたるベトナム語は đườngphốngõhẻm があり、それぞれ、
  • đường ⇒ 幹線道路級の道路や新しい道路
  • phố ⇒ 道路を表す最も一般的な語
  • ngõphốから枝分かれした路地
  • hẻmngõからさらに枝分かれした幅の狭い小路
という使い分けがなされ、
đường Phan Bội Châu のように通り名に前置します。

以上、
ベトナムの通り名の由来について触れましたが、
ここで挙げたのはほんの一部にすぎません。

みなさんが気になる通り名に出会うたび、
立ち止まって調べてみるのも面白いかもしれませんね。

ちなみに、
かの有名なベトナム建国の父、ホー・チ・ミンの名前は、
通りの名前になっていないのでしょうか。

答えは、言うまでもありません。

ホーチミン通り(道路)、
いわゆるđường は、
北はカオバンから南はカマウまで、
ベトナム南北を貫く二本目の道路として2000年に建設が始まり、
現在も各所で建設中です。

完成すれば全長3000キロメートルに及ぶとされ、
ベトナム全国30の省を結ぶ道路になるそうですが、
その建設現場にはベトナム戦争時に埋設された地雷や不発弾があり、
作業には困難と危険が伴っています。
それらを緩和するために日本のODAも投入され、
文字通り命がけの作業となっているようです。

ホーチミン、
その命は果てても、
今なお肉体はハノイの廟で人民を勇気づけ、
ましてや名前だけになっても、
建設作業に携わる人々の心を鼓舞しているのかもしれません。

(おわり)

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