ハノイ旧市街36通り

ふむにちわ!
ハノイの旧市街といえば、
ハノイ観光には欠かせない名所です。

ホアンキエム湖の北に位置し、
古くから手工業者の居住区が集中し、
同時に彼らの商いの土地として栄えた場所です。

『ベトナムの通りの名前』(ディープなベトナム)で少し触れましたが、
今回はハノイの旧市街の、
いわゆるハノイ旧市街36通りについてディープに掘り下げてみましょう。

旧市街の場所

下の地図を見てください。

どのあたりが旧市街か、お分かりでしょうか?

ハノイ旧市街は世界遺産でもあるタンロン(Thăng Long)城郭の東側に位置し、
まさに城下町として歴史を刻んできました。

といっても、
現在では城郭は一部を残して姿を消し、
旧市街との位置関係をパッと見て確認することは困難です。

タンロン城郭・・・。
それはどこにあって、
どのくらいの大きさだったのか・・・。
とても気になるところです。

そこで上の地図に、
城郭の影を浮かび上がらせてみましょう!

タンロン城郭 on ハノイの地図

お、大きい!

ご覧のとおりタンロン城郭は、
周囲4キロを超える長さを持つ巨大な建造物だったようです。

現在、
遺跡としては赤く色をつけたエリアにタンロン遺跡が残るのみですが、
その城郭の内部には、
首相府や外務省がバーディン広場を中心に位置し、
その西には建国の父ホー・チ・ミン()が眠るホーチミン廟、
南には赤星旗がはためくフラッグタワーが立つなど、
政治関係の建物やロケーションが集中していることがわかります。

そして、
城郭外部の東側、イエローに染まった地区こそ、
他でもないハノイ旧市街なのです。

早速、ハノイ旧市街36通りにズームインして、
詳しく見ていくことにしましょう。

旧市街の定義

日本語でよく言うハノイ旧市街36通りという呼び名は、
実を言うとその実態を正確に捉えたものではありません。

というのも、
これは歴史上比較的新しい呼び方で、
主に歴史的建造物保存の観点から制定された、
1995年3月30日 国土交通省 建築計画 第70番決議、ベトナム語では、
Quyết định số 70 BXD/KT-QH ngày 30 tháng 3 năm 1995 の中で定められたのですが、
(BXD/KT-QH は Bộ Xây Dựng / Kiến TrúcQuy Hoạch の略)
東は、
チャンクアンカーイ(Trần Quang Khải通り、および
チャンニャットズアット(Trần Nhật Duật通り、
西は、
フンフン(Phùng Hưng通り、
南は、
ハンボン(Hàng Bông通り、ハンガイ(Hàng Gai通り、
カウゴー(Cầu Gỗ通り、ハントゥン(Hàng Thùng通り、
北は、
ハンダウ(Hàng Đậu通りの、
それぞれの通りに囲まれた地区を 36 Phố Phường と呼びならわし、
歴史的建造物保存地区として指定しました。
36 Phố PhườngPhường とは漢字で「坊」、
古来からの同業組合の行政単位を表しており、
それぞれの組合は1本の通りを軸に両側へ広がっていったため、
結果的に通りごとに特色あるカテゴリーの商品を扱うようになりました。
36通りの36という数字は、
この「坊」が36あったことに由来するとされていますが、
現在では地区内の76の通りがそれぞれ、10つに減った「坊」に属しています。
(10つの Phường : Đồng Xuân, Lý Thái Tổ, Hàng Bạc, Hàng Buồm,
Hàng Bồ, Hàng Bông, Hàng Đào, Cửa Đông, Hàng Gai, Hàng
ですから、
ちゃんと訳すと長いので、
このページではハノイ旧市街36通りで通していますが、
ベトナム語の呼び名である 36 Phố Phường は正確には、
Phố が「通り」で、Phường が「坊」ですから、
ハノイ36の同業組合通りとでも言うべきなのです。

旧市街の歴史

現在のハノイ旧市街に人々が居住し商業活動が始まったのは、
李()朝後期から陳(Trần)朝初期にかけてとされています。
黎()朝の頃、
地区内にはホン川やホアンキエム湖に通じる池や湖が点在していましたが、
19世紀に入ると居住区の拡張に伴い埋め立てられてしまいます。
しかしその痕跡は現在でも、
河口(Hà Khẩu江口(Giang Khẩu
木の橋(Cầu Gỗ東の橋(Cầu Đôngのような通り名として残っています。
その後も華僑が入るなどして一層賑やかな商業区となり、
フランス植民地時代にはフランス人やインド人の商人も加わり、
植民地政府によってそれまで混沌としていた路上市場がひとつにまとめられ、
現在でも有名なドンスアン市場(chợ Đồng Xuânが生まれました。
chợ は「市場」の意)
ドンスアン市場では近年大規模な火事があり、
再建はされたものの管理が厳しくなって活気がなくなったという人もいます。
もうひとつの大型の市場であるハンザ市場(chợ Hàng Daも2010年に新装オープンし、
区画が整備されきれいになった反面、
活気という面では以前より劣ると言わざるをえないでしょう。
しかしながら、
ザーグー(Gia Ngư)通りやイエンタイ(Yên Thái)通り、
ドンスアン市場の周辺には依然として、
生き生きとした路上市場が存在しており、
特色ある各通りの雰囲気と相まって、
今でも観光客を惹きつけて止まないスポットです。

歴史的建造物群の保存と、
商売のため改善や改変を重ねる思惑と、
双方が混在しているという点も旧市街の見どころなのかもしれません。

「ハン」で始まる通り

外国人観光客にも比較的有名なのが、
Hàng BạcHàng GiầyHàng Đường などの、
旧市街に多くある頭にハン」(Hàngのつく通りの存在でしょう。
旧市街36通り地区内には、
現在合計42本のハン」(Hàngで始まる通りがあります。
(ここでは phốngõđường などの道路の種類は考えないことにします。⇒参考
ハン」(Hàngは「商品、品物」という意味で、
それに具体的な商品カテゴリーを指す語を続けて、
何を売っている通りなのか、一目で分かるようになっています。
これらの通りに軒を連ねるのは、
古来からの同業組合に端を発する個人商店で、
現在では本来のカテゴリーからは外れた店やホテルが並ぶ通りもありますが、
金属製品ならハンバック(Hàng Bạc通り、
甘味ならハンドゥオン(Hàng Đường通り、
お茶ならハンディエウ(Hàng Điếu通りというように、
現在でも特色のある商品を売る店が並ぶ通りが存在しています。
是非、下記「誰トク!?ハンストリートアーカイブス」を参考にして、
それぞれの通りの商品カテゴリーを頭に入れて歩いてみてください。
昔の名残りや新たな発見が見つかるかもしれません。

長いので、興味ない方は、スクローーール!!
(もしくはココをクリックして次へ)

▼ 誰トク!?ハンストリートアーカイブス ▼

(地図中の黒字の通り名をクリックするとそれぞれの解説にジャンプします)

ハンバック(Hàng Bạc)通り ハンブン(Hàng Bún)通り ハンタン(Hàng Than)通り ハンダウ(Hàng Đậu)通り ハンコット(Hàng Cót)通り ハンザイ(Hàng Giấy)通り ハンコアイ(Hàng Khoai)通り ハンルオック(Hàng Lược)通り ハンチャイ(Hàng Chai)通り ハンズオイ(Hàng Rươi)通り ハンマー(Hàng Mã)通り ハンチエウ(Hàng Chiếu)通り ハンフオン(Hàng Hương)通り ハンヴァーイ(Hàng Vải)通り ハンドン(Hàng Đồng)通り ハンカー(Hàng Cá)通り ハンザイ(Hàng Giầy)通り ハンドゥオン(Hàng Đường)通り ハンブオム(Hàng Buồm)通り ハンチン(Hàng Chĩnh)通り ハンガー(Hàng Gà)通り ハンブット(Hàng Bút)通り ハンガン(Hàng Ngang)通り ハンフェン(Hàng Phèn)通り ハンカン(Hàng Cân)通り ハンムオイ(Hàng Muối)通り ハンマム(Hàng Mắm)通り ハンチェー(Hàng Tre)通り ハンボー(Hàng Bồ)通り ハンディエウ(Hàng Điếu)通り ハンティエック(Hàng Thiếc)通り ハンダオ(Hàng Đào)通り ハンベー(Hàng Bè)通り ハントゥン(Hàng Thùng)通り ハンノン(Hàng Nón)通り ハンクアット(Hàng Quạt)通り ハンチー(Hàng Chỉ)通り ハンマイン(Hàng Mành)通り ハンホム(Hàng Hòm)通り ハンガイ(Hàng Gai)通り ハンザ(Hàng Da)通り ハンボン(Hàng Bông)通り ハンハイン(Hàng Hành)通り ハンチョン(Hàng Trống)通り ハンザウ(Hàng Dầu)通り ハンヴォイ(Hàng Vôi)通り

ハンタン(Hàng Than)通り

ハンダウ(Hàng Đậu)通りとイエンフ(Yên Phụ)通りを約400メートルにわたって繋ぐハンタン(Hàng Than通り。タン」(ThanThán 【炭】の訛り音で、かつてこの通りで木炭(Than Hoa)や石炭(Than Đá)が売られていたことに由来しています。現在ではグエンニン(Nguyên Ninh)が火付け役となったバインコム(bánh cốm)の店が軒を並べています。
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ハンダウ(Hàng Đậu)通り

チャンニャットズアット(Trần Nhật Duật)通りからハンタン(Hàng Than)通り入口付近の円柱形の生活用水供給塔に伸びるハンダウ(Hàng Đậu通り。豆を意味するダウĐậuの呼び名はかつてこの通りで豆類が売られていたことに由来しています。
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ハンコット(Hàng Cót)通り

ハンコット(Hàng Cót通りはハンマー坊(phường Hàng )に属する通りで、北はヴァンスアン(Vạn Xuân)公園から南北に約400メートルにわたって走っています。コットCótとは主に竹を原材料とした簾(す)やすだれを指し、20世紀初頭にここに住む住人がコット(Cót)の製造販売を生業としていたことに由来しています。
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ハンザイ(Hàng Giấy)通り

ハンダウ(Hàng Đậu)通りからハンコアイ(Hàng Khoai)通りにかけて約200メートルにわたるハンザイ(Hàng Giấy通り。ザイGiấyは紙類の総称で、かつてこの通りで各種の用紙が販売されていました。フランス植民地時代には遊女屋が軒を並べる遊廓街が形成され、働く女性たちは「ハンザイの芸妓」と呼ばれていました。当時はフランス語で「紙の通り」を意味する”Rue du Papier”と呼ばれましたが、11945年の革命後に現在の呼び名となりました。
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ハンコアイ(Hàng Khoai)通り

かつて各種芋(Khoai)類が販売されていたハンコアイ(Hàng Khoai通りは、ドンスアン(Đồng Xuân)市場の北側に約360メートルにわたり横たわっています。かつてより各地の農民がこの地に集まり、芋類をはじめとする多種多様な農産物を販売していました。現在も農産物を扱う路上市場として賑わい、鍋や酒類を出す屋台も出店しています。なお、ハンコアイ(Hàng Khoai)の名は1945年に正式決定されたもので、フランス植民地時代には仏語で「イモの通り」を意味する”Rue de Tubercules”と呼ばれていました。
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ハンルオック(Hàng Lược)通り

ルオックLượcとは「櫛(くし)」の意で、かつてこの通りに数軒の櫛屋が店を構えていたため、この名になりました。昔は通り沿いに川が流れ、その川の名をとってソントーリック(Sông Tô Lịch)通りと呼ばれた時期もありました。
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ハンチャイ(Hàng Chai)通り

ハンチャイ(Hàng Chai通りはハンズオイ(Hàng Rươi)通りとハンコット(Hàng Cót)通りを結ぶ長さ約80メートルの短い通りです。チャイChaiは「ビン」の意で、フランス植民地時代に瓶類を得る店があったことに由来しています。
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ハンズオイ(Hàng Rươi)通り

ハンチャイ(Hàng Chai)通りとハンマー(Hàng )通りを結ぶ、長さ100メートルに満たない通り。ズオイRươiは「ゴカイ」(日本では釣り餌などにされる砂浜に住む環形動物。ベトナムでは発酵調味料 mắm rươi の原料にもなる)の意で、かつて陰暦の9月になると、人々が集まりゴカイ市を開いていました。4番地の家屋は1930年なかば、インドシナ共産党( Đông Dương)の本部として使われていたことで知られています。
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ハンマー(Hàng )通り

フランス植民地時代に”Rue du Cuivre”と呼ばれたハンマー(Hàng 通りでは、紙製の冥器(墓前で燃やす供え物)を手掛ける手工業が栄えてきました。ハンマー坊に属すこの通りは全長約300メートル、陰暦7月の中秋節の時期になると各店舗が極彩色の祭祀具や玩具を売り出し、1ヵ月に渡って賑わいを見せます。
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ハンチエウ(Hàng Chiếu)通り

旧市街北東の入り口、東河門から西へ約280メートル、ハンマー(Hàng に接続するハンチエウ(Hàng Chiếu通り。ハンチエウの呼び名はかつてチエウChiếu:ござ・むしろ)が売られていたことに由来していますが、バッチャン(Bát Tràng)やアンクアン(An Quảng)産の陶器類も多かったため、ハンバット(Hàng Bát)通りの別称もあります。フランスによるハノイ占領計画の中、武器供給のための通りとして”Rue Jean Dupuis”と呼ばれ、また、ハノイで最初に西洋式建築が立てられた通りでもあります。
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ハンヴァーイ(Hàng Vải)通り

かつてより布(vải)を扱う店があったハンヴァーイ(Hàng Vải通りはもともと、1945年の統一まで、耕うん用の鋤や鍬の刃(lưỡi cuốc)を扱うハンクオック(Hàng Cuốc)通りとの2本に分かれていました。漆黒(thâm)や茶(nâu)に染めた生地の取扱いが主要であったため、Hàng Vải Thâm と呼ばれることもあります。
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ハンドン(Hàng Đồng)通り

手工業による銅(đồng)製品を扱う坊であるハンドン(Hàng Đồng通り。ハノイがタンロンと呼ばれていた時代にはすでに、銅製の食器類を皇帝に献上していました。フランス植民地時代には、現在のバットスー(Bát Sứ)通りと合わせてハンチェン(Hàng Chén)通りと呼ばれていました。(Bát Sứ は「陶磁器」、Chén は「椀、グラス」の意)
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ハンカー(Hàng )通り

ハンドゥオン(Hàng Đường)通りからトゥオックバック(Thuốc Bắc)通りをつなぐハンカー(Hàng 通り。かつてこの地にはトー川(Sông Tô)と呼ばれる川が流れ、魚()類が盛んに販売されていました。
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ハンザイ(Hàng Giầy)通り

「はきもの」を意味するザイGiầyの呼び名を持つハンザイ(Hàng Giầy通りは、ハンチエウ(Hàng Chiếu)通りの中ほどから延びてルオンゴッククイエン(Lương Ngọc Quyến)通りにつながります。ここにはかつてチャム村(làng Chắm)から出てきた靴職人たちが住んでいました。フランス植民地時代を経た中でいくつもの呼び名を持ったこの通りは、1954年ハノイ解放後に現在の名になりました。
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ハンドゥオン(Hàng Đường)通り

「砂糖」を意味するドゥオンĐườngの名を持つこの通りでは、昔から文字通り砂糖をはじめ、各種甘味を取り扱う店が軒を連ねています。特にベトナム版干し梅(ô mai)やフルーツの砂糖漬け(mứt kẹo)を扱う有名店は今も健在で、遠方よりわざわざ買いに来る人もいるほどです。テトや中秋の時期には多くの人が甘味を買い求めて賑わいます。(ベトナム版干し梅はとても甘く、種類も豊富で美味です)
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ハンブオム(Hàng Buồm)通り

「帆」の意味を持つブオムBuồmという名のハンブオム(Hàng Buồm通りは、かつてホン川がニハー川(sông Nhị Hà)と呼ばれていた頃、その河岸に位置していました。その立地から住民は帆をはじめイ草製の袋やござ、すだれの生産など、船舶や河川流通に関連する手工業を生業としました。現在ではビアホイ(:ベトナム版ビアガーデン)が軒を並べ、テトや中秋の時期には一層の賑わいを見せています。
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ハンチン(Hàng Chĩnh)通り

旧市街の東側に位置するハンチン(Hàng Chĩnh通りはかつてホン川に面し、船の荷降ろしや荷積みに便利な場所でした。チンChĩnhは甕(かめ)や壺を意味し、荷を入れる容器として、この地で盛んに売られていたことが通り名の由来となりました。
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ハンガー(Hàng )通り

ハンマー(Hàng )通り中ほどからタンロン城郭東門クーアドン(Cửa Đông)通りへ延びるハンガー(Hàng 通りではかつて、ガーが意味するとおり鶏やアヒルなどの食用の鳥が売られていました。歴史的に古い通りで、家々の区画や道幅が狭く、現在では鳥を売る光景はまず見られなくなっています。
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ハンブット(Hàng Bút)通り

「筆」を意味するブットBútを名に持つハンブット(Hàng Bút通りでは、かつて筆や墨、筆記用の紙などが売られていました。その後、服飾用の布きれを扱う店が並ぶようになり、「布きれ」を意味する mụn からハンムン(Hàng Mụn)通りと呼ばれるようになりましたが、1945年の革命後、現在の呼び名になりました。今では服飾用品のほか、端午の節句には子供向けの花束が売られる光景を見ることができます。
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ハンガン(Hàng Ngang)通り

ハンドゥオン(Hàng Đường)通りとハンダオ(Hàng Đào)通りを南北に結ぶハンガン(Hàng Ngang通り。他のハンストリートが分かりやすい意味を持っているのに対し、ガンNgangという語には品物を表すような明確な意味はなく、その名の由来は現在も謎に包まれたままです。
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ハンフェン(Hàng Phèn)通り

「ミョウバン」を意味するフェンPhènの名で呼ばれるハンフェン(Hàng Phèn通りではかつて、ミョウバンをはじめ硫酸塩類が売る店が並んでいました。飲用水を川や湖から汲んでいた時代には、質の悪い水に沈殿作用を持つミョウバンを入れて飲用としていました。また、この地にドンタイン(Đông Thành)市場と呼ばれる市場があったことから、フランス植民地時代には「古い市場通り」(rue du Vieux marché)の名で呼ばれていましたが、1945年の革命後現在の名になりました。
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ハンカン(Hàng Cân)通り

「秤(はかり)」を意味するカンCânの名を持つハンカン(Hàng Cân通りでは、かつて銅や鉄の重さを天秤で比較する方式の各種測量器具が販売されていました。フランス植民地時代に「天秤通り」を意味する”rue des Balances”の名で呼ばれ、1945年の革命後に現在の呼び名になりました。
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ハンムオイ(Hàng Muối)通り

全長約300メートルのハンムオイ(Hàng Muối通りは、かつてホン川沿いのロケーションにありました。家々は川を臨む形で建てられ、多くの住民が材木業に従事していました。「塩」を意味するムオイMuốiの呼び名がついていますが、この通りで塩の生産や販売が行われていた記録は残っていません。(塩は各市場内で売られていました)
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ハンマム(Hàng )通り

ハンマム(Hàng 通りはかつて、卵(trứng)が盛んに売られていたハンチュン(Hàng Trứng)通りとの2本の通りに分かれていました。マムが意味するとおり、ヌックマム()やマムトム()などの海産物の発酵調味料が生産販売され、それらは周辺の各省にも運ばれるほど有名だったようです。
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ハンチェー(Hàng Tre)通り

かつてホン川河岸に面していたハンチェー(Hàng Tre通りはもともと、ビンロウジュ(cau)の実やその加工品が盛んに売られていたため、ハンカウ(Hàng Cau)通りの名で呼ばれていました。ホン川河岸の整備が進められるとそれらの業種は現在のハンベー(Hàng )通りに移転し、ハンチェー(Hàng Tre)通りは材木置場や材木工場、また材木を運ぶための牛や馬の舎として利用されていました。チェーTreの呼び名は扱われた材木が主に竹(tre)であったことに由来するとされています。
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ハンボー(Hàng Bồ)通り

「籠(かご)」を意味するボーBồの名を持つハンボー(Hàng Bồ通りでは、かつてより米もみを入れるための竹製の籠を編む伝統的な手工業が栄えました。現在では様々なカテゴリーの商店が軒を連ね、特にテトの時期には大いに賑わいを見せます。
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ハンバック(Hàng Bạc)通り

「銀」を意味するバックBạcの名で親しまれるハンバック(Hàng Bạc通りでの金属加工の伝統的手工業は、15世紀のレータイントン(Lê Thánh Tông)帝の時代、チャウケー(Châu Khê)村の人々が貨幣の鋳造を担ったことに端を発しています。19世紀、阮(Nguyễn)朝成立に伴いフエに遷都した際も、彼らの技術が持ち込まれました。現在でも彼らは金属加工の同業者コミュニティーを形成し、通りはさながらひとつの「村」のような連帯意識を持っているとされます。
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ハンディエウ(Hàng Điếu)通り

ディエウĐiếuは葉タバコを吸うための「キセル」を指し、かつてこの通りではトゥオックラオ(thuốc lào)をはじめとする葉タバコの葉や関連製品が売られていたとする説がありますが、実際葉タバコを扱う店は数軒しかなく、むしろこの通りと交差するバットダン(Bát Đàn)通りに多かったようです。
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ハンティエック(Hàng Thiếc)通り

「鈴(すず)」を意味するティエックThiếcと呼ばれるハンティエック(Hàng Thiếc通りでは、燭台や香炉、お盆など、鈴製の鋳造製品の生産拠点でした。現在では当時の名残りからか、ブリキ・トタン製品や鏡などを生産する店が集中しています。
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ハンダオ(Hàng Đào)通り

旧市街一のメインストリートであるハンダオ(Hàng Đào通りでは、陳(Trần)朝の時代より絹製品の染物を生業とするダンロアン(Đan Loan)村の人々が多く居住していました。彼らの製品の多くは赤やピンクで染め抜かれていたことから、「桃色」を意味するダオĐàoが通りの名になったとされています。2006年には人民委員会の許可によりハンダオ-ドンスアン夜市(Chợ đêm Hàng ĐàoĐồng Xuân)が開かれるようになり、金土日の夜には歩行者天国となって伝統的手工芸品やハノイ土産がならび、観光客で賑わいを見せています。
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ハンベー(Hàng )通り

かつてホン川河岸が現在より近かったころ、「筏(いかだ)」を意味するベーと呼ばれるハンベー(Hàng 通りには堤防が築かれていました。水位が堤防の足元まで達すると、川からは筏(いかだ)が、通り沿いの家々からは人々があつまり、「筏市」(chợ Hàng )が開かれ様々な品物が売り買いされました。
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ハントゥン(Hàng Thùng)通り

「桶(おけ)」を意味するトゥンThùngの名を持つハントゥン(Hàng Thùng通りでは、かつて木製の桶が生産販売されていたことで知られています。
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ハンノン(Hàng Nón)通り

ハンディエウ(Hàng Điếu)通りと交差するハンノン(Hàng Nón通りはかつて、すげ笠(nón)を売る店で溢れていました。現在でこそノンNónを被るのは農民や天秤棒を持つ行商人というイメージがありますが、かつてのベトナムでは男女や身分を問わず、多種多様なノンを被っていました。今ではこの通りでノンを売る店は数える程に減ってしまいましたが、ベトナムのお土産として、ノンは観光客の人気を集めています。
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ハンクアット(Hàng Quạt)通り

「うちわ・扇子」を意味するクアットQuạtの名を持つハンクアット(Hàng Quạt通りはかつて、ハンダン(Hàng Đàn)通りとマーヴィー(Mã Vĩ)通りとの3本に分かれていました。ハンクアット(Hàng Quạt)通りではうちわや扇子が、ハンダン(Hàng Đàn)通りではダン(Đàn)の意味するとおり、月琴をはじめ様々な弦楽器が生産販売されていました。
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ハンチー(Hàng )通り

ハンチー(Hàng 通りは小さな路地(ngõ)で、チーには「糸」という意味があるものの、この通りで数代にわたり糸を作って売っていた家があったという説がありますが、その由来ははっきりとしていません。
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ハンマイン(Hàng Mành)通り

ハンマイン(Hàng Mành通りの誕生は数百年前にさかのぼり、現在のバックニン(Bắc Ninh)省イエンフオン(Yên Phong)、竹製の日よけ(mành mành)の製造を生業としたゾイテー(Giới Tế)村の人々が、このあたりに出て始めたことが起源とされています。
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ハンホム(Hàng Hòm)通り

「箱」を意味するホムHòmの名で呼ばれるハンホム(Hàng Hòm通り。かつて木製の漆器の製造を生業としたハーヴィー(Hà Vĩ)村の人々が、都に出て衣服や紙を入れる漆器製の箱を製造販売したことがこの通りの起こりとされています。
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ハンガイ(Hàng Gai)通り

「麻」を意味するガイGaiの名を持つハンガイ(Hàng Gai通り。この地ではかつてより麻製の糸やロープ、網などの製造販売を生業とする人々が暮らしていました。のちに印刷出版業の進出を契機に、彼らはバットダン(Bát Đàn)通りに移ったとも、フランス植民地政策を受けて故郷へ帰ったとも言われています。
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ハンザ(Hàng )通り

「皮革」を意味するザーの名で呼ばれるハンザ(Hàng 通りでは、主になめした牛革の製造販売を生業とする人々が住んでいました。製造の段階ではなめした革を干す広い敷地が必要だったため、付近のイエンタイ(Yên Thái)通りおよびタムトゥオン(Tạm Thương)通りあたりで生産し、ハンザ(Hàng )通りで販売していました。通りの南端に位置する同名のハンザ市場(chợ Hàng Da)は、現在でこそ近代的な建物ですが、当時は建造物はほとんどなく、昼は市場、夜は見世物一座が貸し切るなど柔軟な使われ方をしていたようです。
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ハンボン(Hàng Bông)通り

ハンボン(Hàng Bông通りは全長1キロメートル弱に及ぶ長い通りで、他の多数の通りに接続しています。加えて他の通りより高地にあるため、市街が洪水に見舞われる際にはいち早く水が引くことで有名です。通り名のボンBôngは「綿」の意で、かつてこの通りが複数の相違する通りであった時、それぞれで多種多様な綿製品が売られていたことに由来しています。
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ハンハイン(Hàng Hành)通り

「タマネギ」を意味するハインHànhの名を持つハンハイン(Hàng Hành通りは大きく湾曲した小さな路地です。その名の由来はシンプルに、昔タマネギが多く売られていたからという人もいますが、実際は判然としていません。事実、他の「ハンストリート」のように昔の名残りのある店もなければ、生業も残っていません。
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ハンザウ(Hàng Dầu)通り

フランス植民地時代、「湖畔通り」(Rue de Lac)と呼ばれたこの通りは、1945年の革命後にハンザウ(Hàng Dầu通りとなりました。かつては食用や街燈用の油(Dầu)類が販売されていましたが、現在は靴やサンダルを扱う店が軒を連ねています。
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ハンチョン(Hàng Trống)通り

ハンガイ(Hàng Gai)通りからホアンキエム湖南西へ約400メートルの長さのハンチョン(Hàng Trống通り。チョン(Trống)は「太鼓」の意で、太鼓の生産を主要産業としたリエウトゥオン(Liêu Thượng)村の人々が住み、商売を営んでいました。
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旧市街36通り地区にはない「ハン」で始まる通り

旧市街36通は後になって定められたくくりですから、
当然ながら地区内でなくとも「ハン」で始まる通りがあります。
ここではその中からいくつかをご紹介します。

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ハンブン(Hàng Bún)通り

~ 36通り地区外のハンストリート ~
全長約500メートル、イエンフ(Yên Phụ)通りからファンディンフン(Phan Đình Phùng)通りを縦走するハンブン(Hàng Bún通り。ブン」(Búnはご存じベトナム米粉ビーフンを指し、昔この地にあったイエンニン(Yên Ninh)村の人々がブンの製造を生業としていたことに由来しています。
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ハンヴォイ(Hàng Vôi)通り

~ 36通り地区外のハンストリート ~
かつてはホン川沿いであったハンヴォイ(Hàng Vôi通りでは、石炭(vôi)の生産・販売が盛んでした。
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ハンフオン(Hàng Hương)通り

~ 36通り地区外のハンストリート ~
リーナムデー(Lý Nam Đế)通りとフンフン(Phùng Hưng)通りをつなぐハンフオン(Hàng Hương通りは、ちょうど阮朝時代のタンロン城郭周りの濠(ほり)にあたる場所にあります。歴史的には比較的新しく、地方から出てきた線香(Hương)作りを生業とする人々によって形成されたとされています。
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ハンチュオイ(Hàng )通り

~ 36通り地区外のハンストリート ~
ホアンキエム湖から南東に約1キロメートル、旧市街36通り地区のの外(本記事の地図の範囲外です)に位置するこの通りは、かつて周辺の池や湖とともにバナナ(chuối)の木が生い茂っていたことから Hàng と呼ばれるようになったとされています。
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36通り地区内の「ハン」で始まらない通り

36通り地区には、
「ハン」で始まらない通りもたくさんあります。
ハンストリートだけじゃ物足りない!
という方のために、簡単な一覧にしておきました。

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  • Bát Đàn : 主に素焼きの「陶磁器」の意。中国の日本のものも売られていた。
  • Bát Sứ : 「磁器製の鉢」の意。
  • Cầu Gỗ : 「木の橋」の意。昔この地に橋があったことから。
  • Cầu Đông : 「東の橋」の意。昔この地に橋があったことから。
  • Chả Cá : 「チャーカー」は魚のすり身揚げ。
  • Chân Cầm : もともとあった二つの集落を合わせた名前(Chân Tiên と Minh Cầm)。
  • Chợ Gạo : 「米の市」の意。昔この地に米の市場があったことから。
  • Cửa Đông : 「東の入り口」の意。タンロン城郭東門から市街へ延びる。
  • Đồng Xuân : ドンスアン市場の西側を走る。
  • Gầm Cầu : 「橋の下」の意。ロンビエン橋の橋梁の下にある。
  • Gia Ngư : 漢字で「家漁」。かつて湖があり、湖畔に魚市が開かれていた。
  • Hà Trung : ここにあった集落イエンチュンハ(Yên Trung Hạ)の Trung とハノイ()の Hà が一つになった名前。
  • Lãn Ông : かつては「福建通り」と呼ばれたランオン通り。ランオンは若き日をタンロン城下で学んだ医師の雅号。
  • Lò Rèn : 「鍛冶」の意。かつて鍛冶屋があったことから。
  • Lò Sũ : 「棺桶屋街」の意。かつて棺桶や白装束を扱ったことから。
  • Mã Mây : ハンマー(Hàng Mã)通りとハンマイ(Hàng Mây)通りを合わせた名前。
  • Ngõ Gạch : Gạch は「レンガ」。かつてレンガや石炭が売られたことから。
  • Ngõ Trạm : Trạm は広義で「何かが集まる場所」。かつてこの地にあった私立のタンロン学校には優秀な教師が多く、多くの革命志士を輩出した。
  • Ngõ Tạm Thương : Ngõ は「路地」の意。Tạm Thương は人名であるとされる。
  • Thuốc Bắc : 「漢方薬」の意。
  • Tố Tịch : かつてトーティック村(làng Tố Tịch)の集会所があった。
  • Cao Thắng : ファンディンフン(Phan Đình Phùng : 潘廷逢)率いる義勇軍に参加した兄弟の兄。銃の製造に尽力したとされる。
  • Đào Duy Từ : ダオズイトゥ(陶維慈)はグエンフックグエン(Nguyễn Phúc Nguyên : 阮福源)に仕えた軍師であり文人。社会基盤の整備と強固な軍隊育成に尽力した。
  • Đinh Liệt : 封建時代黎朝に仕えた功臣。
  • Lương Ngọc Quyến : 近代ベトナムの志士で Lương Văn Can の次男。ハノイ生まれ。
  • Lương Văn Can : 近代ベトナムの志士で子に Lương Ngọc Quyến を持つ。ハノイの南西ハードン省出身。
  • Nguyễn Siêu : 阮超。10世紀に中国から逃れ大瞿越を建国した。
  • Nguyễn Thiện Thuật : 阮善述。フランス植民地化で対仏蜂起に尽力した政治的リーダー。
  • Phùng Hưng : 馮興。北属期に中国・唐に対抗した政治的リーダー。
  • Tạ Hiện : 謝現。フランス植民地化で対仏蜂起に尽力した政治的リーダー。
  • Trần Nhật Duật : 陳日燏。陳朝の皇子で13世紀の元寇の際に功績を残した。
  • Trần Quang Khải : 陳光啓。陳朝の宰相として活躍した。

命を賭して守ろうとした街

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ハノイ旧市街の北東の入り口、
ハンチエウ(Hàng Chiếu)通りと大通りの境に古めかしい門があります。
二段のやぐらのような形状をしたこの門は東河門」(Đông Hà Mônと呼ばれ、
1749年に建設されたこの門は、
かつてのタンロン市街地を囲っていた城塁に存在していた門のうちのひとつで、
戦禍のなか幾度となく修復を繰り返し、
1817年に現在の姿になったとされています。
ハノイの人々はこの門を別の名で、
クアンチュオン門」(Ô Quan Chưởngのように、ある役人の名前をつけて呼んでいます。
そのいわれには諸説あるのですが、
チュオンさんが門の近くに家を持っていたからだとか、
門の管理を任されていたからだとか、
フランス軍の城門内への侵攻を身を挺して阻止しようとしたからだとか、
そのいずれの説からも、
チュオンさんが門のことを想っていたであろうことは想像できますが、
フランス植民地下で市街区拡張のため城塁が破壊された際、
この門だけは記念として残されたという事実を鑑みると、
命がけで、
愛する街を守ろうとした男がいた、
敵の目にも、
かっこよく映った国を想う男がいた、
その説を信じたくなる気持ちになります。

今も老若男女がくぐるこの門は、
街を守るという使命を終えて、
自分を想ってくれた男の名前をもらって、
しずかにこの街を見守っているのかもしれません。

(おわり)

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