ふむにちわ!
ヌックマム(nước mắm)は、魚と塩を発酵・熟成させて作る魚醤です。
ベトナムの国民食ならぬ国民調味料とも言えるヌックマム。
その歴史は、どこまでさかのぼることができるのでしょうか。
後世に編纂されたベトナムの史書には、約1,000年前の出来事としてヌックマムの名が現れます。その後の記録をたどると、家庭の調味料だったヌックマムが、税として集められる産物、海を越える商品、巨大産業、科学と規格の対象、そして地域文化として守るものへと姿を変えていったことが見えてきます。
この記事では、997年・1013年の史書から、17世紀の外国人による記録、植民地期の産業化、戦争と南北分断、統一後の統制経済、Đổi Mới(ドイモイ)、現代の地理的表示(GI)・原産地名称保護(PDO)・無形文化遺産まで、現在確認できる約1,000年分の記録を史料に沿ってたどっていきます。
少し長い旅になりますが、ぜひお付き合いください。
ヌックマム全体についてまず俯瞰したい場合は、以下の記事がおすすめです↓
ヌックマムは、いつから作られてきた?
ヌックマムは、後世の史書では10世紀の貢納品として現れ、やがて税を課される産物、海を越えて売られる商品、何千万 Lもの量を生産する大産業へと発展します。
戦争と南北分断の時代にも、それぞれ異なる体制の中で作り続けられました。
1975年の統一後には、Đổi Mới(ドイモイ)と呼ばれる市場経済化を含む改革が始まると、再び民間生産や輸出が広がり、21世紀には地理的表示や文化遺産として「産地」や「作り方」まで守られるようになりました。
その過程では、品質をどう測るか、何をヌックマムとして販売できるか、産地名や地域の製法をどう守るかという問題も繰り返し現れます。
ここからは、確認できる史料を大きな時代の流れに沿ってたどりながら、ヌックマムが単なる調味料から、産業、戦時下の生活物資、規格商品、そして地域文化へと位置づけを変えてきた歩みを見ていきます。

10~11世紀 — 史書に現れるヌックマムと発酵食品 mắm
997年 — 史書では、ヌックマムが貢納品として登場する
1272年に Lê Văn Hưu(黎文休)が編んだ『Đại Việt sử ký(大越史記)』をはじめとする史書をもとにして、1479年に Ngô Sĩ Liên(呉士連)が編纂し、1665年に Phạm Công Trứ(范公著)らが増補、1697年に Lê Hy(黎僖)らによる増補を含む版が完成したベトナムの年代記 『Đại Việt sử ký toàn thư(大越史記全書)』。
その中の、前黎朝(980~1009年。後世の後黎朝と区別するため、こう呼ばれる王朝)の997年の記述にヌックマムが登場します。
この記録には、宋から来た使者が、ベトナム側にヌックマムを貢納するよう求めていたとあります。

史書ではさらに、使者たちがヌックマムの貢納を求めるだけでなく、それに加えて別の負担まで強いていたため、宋の真宗が使節の派遣方法を改めたことも伝えています。
ただし、『大越史記全書』は997年当時に書かれた同時代史料ではありません。現在残る形は後世に編纂されたものであり、そこでいうヌックマムが、現在のヌックマムと製法・形態まで完全に同じだったと断定することもできません。
そのため、現在と同じ製法・形態のヌックマムが997年に存在したと断言はできませんが、この997年の記述は非常に古いヌックマムの言及として捉えることができます。
出典:『Đại Việt sử ký toàn thư』997年条(デジタル閲覧版)/ベトナム水産当局『Bản tin Thủy sản』
1013年 — mắm と塩が税制の中に現れる
mắm(マム)は、魚介類などを塩とともに発酵させた食品を広く指すベトナム語です。液体の魚醤であるヌックマムだけを意味する言葉ではありません。
1013年の記述には、mắm と塩に関する税が記されています。
李朝初代の Lý Thái Tổ(李太祖)が定めた6種類の税について、『大越史記全書』はその一つを mắm muối(発酵食品と塩)に関わるものとして記しています。
ここでいう mắm は、魚介類などを塩とともに発酵させた食品を広く指す言葉で、ヌックマムもそこに含まれていたと考えるのが自然です。
19世紀の学者 Phan Huy Chú(潘輝注)が過去の税制を整理した記述では、ヌックマムが課税対象として挙げられています。原史料と後世の整理で表現に差はありますが、魚介の発酵食品や塩が課税対象として国家の制度に組み込まれていたことが分かります。
出典:『Đại Việt sử ký toàn thư』1013年条/Tuổi Trẻ Cuối Tuần「Nước mắm trong những mảnh sử rời」
17世紀 — 外国人が記録した、日常の魚醤
10~11世紀の記録は貴重ですが、製法や食べ方までは詳しく分かりません。
17世紀になると、外国人が実際に現地で見聞した記録から、魚を塩とともに処理して得る液体調味料が、人々の日常生活へ深く入り込んでいた様子が見えてきます。
17世紀初頭 — 魚の液体調味料が日常の食卓に定着していた
17世紀初頭の記録からは、魚と塩から作る液体調味料が、すでに大衆の日常の食卓へ深く入り込んでいたことが分かります。
その様子を書き残したのが、イタリア人宣教師 Cristoforo Borri です。Borri は1618年からおよそ4年間、当時の Đàng Trong(ダンチョン。Nguyễn〈阮〉氏が支配した南側の地域)に滞在しました。
Đàng Trong は現在のベトナム中部の一部の歴史的な地域名であり、現在の行政区分としての「ベトナム中部」と同じ範囲を意味する言葉ではありません。
Borri がその見聞をまとめた書物は1631年に刊行されました。そこで彼は、魚を塩漬けにして作る食品・液体調味料を、現地で聞いた音に基づく表記とみられる balaciam という語で説明しています。
Borri は、家々がこの魚由来の液体を甕などに大量に蓄え、米に味をつけるために日常的に使っていたと記しています。

Borri の記録で重要なのは、名称よりも家庭で大量に蓄え、米の味付けに日常的に使っていたという点です。17世紀初頭の Đàng Trong では、魚由来の液体調味料が特別な珍味ではなく、普段の食生活の一部になっていました。
出典:Cristoforo Borri, Relatione della nuova missione delli PP. della Compagnia di Giesù al Regno della Cocincina(1631)書誌情報/原典デジタル版
1688年 — 液体魚醤「Nuke-Mum」と、固形の mắm を書き分ける
イギリス人航海者 William Dampier の1688年の記録では、さらに一歩進んで、固形側と液体側を別の名前で書き分けています。
Dampier は Tonkin、つまり当時ヨーロッパ人が北部ベトナムを指して用いた地域を訪れ、小魚や小エビなどを塩とともに甕へ入れ、時間を置いて液体を取り出す様子を記録しました。残るペースト状の側を Balachaun、そこから得る液体魚醤を Nuke-Mum と、現地で聞いた名称を英語風に書き写しています。

この Nuke-Mum は、音と食品の内容の両方から、ヌックマムを指す表記と考えられます。では、なぜ現在の綴りと大きく違うのでしょうか。
17世紀には、カトリック宣教師たちによって、現在の chữ Quốc ngữ(クオック・グー)につながるベトナム語のローマ字表記がすでに作られ始めていました。1651年には Alexandre de Rhodes の辞書も刊行されています。
ただし、この表記法は当時まだ、現在のようにベトナム社会全体で使われる標準的な文字体系ではありませんでした。Dampier の Nuke-Mum も正式なベトナム語綴りというより、現地で耳にした名称の音を、自分なりにラテン文字で写したものと考えるのが自然です。
この記録からは、17世紀末の北部で、固形の発酵魚介と、そこから得る液体調味料が区別して認識されていたことが分かります。
Dampier は Balachaun や Nuke-Mum が市場で売られていたことも記しています。つまりこの時期には、液体の魚醤は家庭で使うだけでなく、売買される商品にもなっていました。
17世紀には南北の両方で具体的な記録がある
Borri が見たのは Đàng Trong、Dampier が見たのは北部の Tonkin でした。
少なくとも17世紀には、Đàng Trong と Tonkin の双方で、魚を塩とともに処理し、その液体を調味料として利用する文化が記録されています。
出典:William Dampier, A New Voyage Round the World/chữ Quốc ngữ の成立史に関する研究
18~19世紀 — 税として集められ、海を越えて売られる商品へ
18世紀 — ヌックマムが税として現物で集められる
18世紀の中部では、ヌックマムが実際に税として徴収される産物だったことを示す記録が残っています。
Phan Huy Chú(潘輝注)の『Lịch triều hiến chương loại chí』(『歴朝憲章類誌』)を紹介した研究者 Phạm Hoàng Quân(范黃軍)の解説によると、1743年ごろ、現在の中部ベトナムにあたる Thuận Quảng 地域では、漁の手段を持つ者は毎年3 tĩn(ヌックマムを入れる炻器製の壺)、雇われて働く者は毎年1 tĩnのヌックマムを納める規定がありました。これは、人頭税に代えて特定の産物を納める thuế biệt nạp(別納税:人頭税に代えて特定の産物を納める税)と呼ばれる仕組みでした。1769年には、ヌックマムの税として3,000 tĩnを超える量が徴収されたと記録されています。

史料には、1769年にヌックマムの税として3,000 tĩnを超える量が徴収された記録が残る。図はその徴収規模を視覚化した歴史再現であり、実際に3,000個すべてが同じ場所へ同時に集積されたことを示すものではない。
この資料でいう tĩn は、胴の中央が膨らんだ炻器製の壺で、ヌックマムを入れるために使われた容器です。ただし、18世紀当時の正確な容量は分かっていません。 1931年の J. Guillerm の報告では、南部・南中部で流通していた tĩn はおよそ3~3.25 Lとされていますが、これは後世の記録であり、18世紀当時の tĩn の容量がどれくらいであったかは分かっていません。
1776年には、学者・官僚 Lê Quý Đôn(黎貴惇)が『Phủ biên tạp lục』(『撫辺雑録』)に、Thuận Hóa・Quảng Nam 一帯の産物や税制、社会の様子を詳しく記録しています。こうした18世紀の記録からは、ヌックマムの生産に関わる人々が行政の課税・徴収制度の中に組み込まれていたことが読み取れます。
つまりこの時代、ヌックマムは家庭で使われる調味料であるだけでなく、行政が納付量を定めて徴収するほど、生産上・経済上重要な産物になっていました。
出典:Tuổi Trẻ Cuối Tuần「Nước mắm trong những mảnh sử rời」/Phan Huy Chú『Lịch triều hiến chương loại chí』(『歴朝憲章類誌』)/Lê Quý Đôn『Phủ biên tạp lục』(『撫辺雑録』)/J. Guillerm(1931)
19世紀の Phú Quốc(フーコック) — ヌックマムを売って米を買う
19世紀のベトナム南西部にある島 Phú Quốc では、ヌックマムが島外から米や塩を得るための交易商品になっていました。
フランス側が1869年にまとめた報告では、島の主な仕事として漁業やヌックマムの生産が挙げられています。
島の人々はヌックマムをカンボジア方面へ運んで米と交換し、Sài Gòn(現在のホーチミン市)方面から来る大型船は米や塩を島へ持ち込み、帰りにヌックマムを買っていったとされています。

魚が多くとれる島で魚醤を作り、それを売って主食の米を手に入れる。ヌックマムは調味料であると同時に、島の生活を外部の市場とつなぐ交換商品でもあったのです。
1907年の記録では、Phú Quốc に22の nhà thùng(大型木樽を並べてヌックマムを仕込む伝統的な製造所・製造家)があり、年間約110万 Lを生産していたとされています。
nhà thùng は、Phú Quốc などで使われてきた地域的な呼び名です。
出典:Tuổi Trẻ「Phú Quốc, trăm năm nước mắm」
19世紀末~1920年代 — 植民地経済と近代商業の中へ
植民地期 — 必須原料の「塩」も政府の統制下に入る
ヌックマムは魚だけでは作れません。もう一つの不可欠な原料が塩です。
フランス植民地統治下では、1897年に Régie du sel(塩専売制度)が導入され、1899年にはインドシナ各地の制度を統一する規定が整えられました。塩は植民地財政を支える重要な収入源の一つになりました。
ヌックマムは大量の塩を必要とするため、塩の専売は魚醤を含む保存・発酵食品の生産コストや原料調達にも関係していました。塩専売が各産地へ与えた影響の大きさは地域や時期によって異なりますが、ヌックマムの必須原料そのものが植民地政府の管理対象だったことは押さえておく必要があります。
つまり植民地期のヌックマム産業は、魚の豊富さだけでなく、塩の制度、税、輸送、市場まで含む経済環境の中で動いていったのです。
参考:Anke Wang, “Salt and State-Building on the China–Vietnam Borderlands, 1870–1940”/James C. Scott, The Moral Economy of the Peasant(植民地期の塩専売とヌックマムなど発酵食品への影響)
1906年 — 「リエンタイン商館」とベトナム人の経済自立
1906年、現在の Bình Thuận 省にあるベトナム中南部沿岸の都市 Phan Thiết(ファンティエット)で、Liên Thành Thương Quán(蓮城商館)が設立されました。
Thương quán は漢越語で「商館」、つまり商業を行う組織という意味です。Liên Thành は固有名詞で「蓮城」で、ここでは「蓮城商館」と呼ぶことにします。
この蓮城商館が、現在もヌックマムなどを製造・販売している Liên Thành 社の出発点です。現在の正式な会社名は Công ty Cổ phần Chế Biến Thủy Hải Sản Liên Thành で、日本語にすれば「蓮城水産加工株式会社」にあたります。現在もホーチミン市に本社を置く株式会社として事業を続けています。
では、なぜ1906年に Phan Thiết で、このような商館が作られたのでしょうか。
当時、知識人 Phan Chu Trinh(潘周楨)らは、ベトナム社会を近代化しようとする Duy Tân(維新)運動を進めていました。教育を広げ、人々の意識を高めるだけでなく、ベトナム人自身が商業を育て、経済的な基盤を持つことも重要だと考えられていました。
その考えに呼応した Bình Thuận の6人の知識人が設立したのが、蓮城商館です。当時は、教育を担う学校、書籍などを通じて人々を啓発する組織、そして商業を担う商館という形で活動が進められ、蓮城商館はそのうちの「商業」を担当する組織でした。
そして、その事業の中心となった商品の一つが、地元 Phan Thiết の主要産品だった ヌックマムだったのです。
すでにヌックマム作りが盛んだった Phan Thiết の魚や製造技術を生かし、地域の商品をベトナム人自身の手で事業として育てていく。蓮城商館にとって、ヌックマムの商売は、単に食品を売って利益を得るだけではなく、ベトナム人自身の経済力を育てるという Duy Tân の考えを実際の商売に移す手段でもありました。

事業は Phan Thiết だけにとどまりません。Mũi Né、Phan Rí、Hội An(ホイアン。中部ベトナムの港市)などへ製造・販売拠点を広げ、1917年には本部を、当時 Sài Gòn に隣接して発展していた華人商業都市 Chợ Lớn(チョロン)へ移します。
1920年には化学分析を行う設備も設け、品質を確認しながら、中部・南部だけでなくカンボジアの Phnom Penh 方面まで販売地域を広げていきました。
さらに1922年には、フランスの Marseille で開かれた植民地博覧会へ Liên Thành のヌックマムが持ち込まれます。目的は、ベトナム国外で販売できる市場を探ることでした。
実際の販売は期待したほどの成果にはつながらなかったとされていますが、Phan Thiết のヌックマムをヨーロッパへ持ち込み、海外市場を探ろうとする試みが、すでに1920年代に行われていたことは注目に値します。
蓮城商館の歴史から見えてくるのは、20世紀初頭のヌックマムが、地域で受け継がれてきた伝統食品であるだけでなく、ベトナム人自身が近代的な商業を築き、国内外へ市場を広げるための商品にもなっていたということです。
出典:Liên Thành 公式「Lịch sử」/Liên Thành 公式サイト・会社情報/Báo Lâm Đồng「Nước mắm Phan Thiết tham gia hội chợ thời Pháp thuộc」
第一次世界大戦~1930年代 — 海外輸送、科学分析、規制へ
第一次世界大戦 — フランスへ渡った人々が「ヌックマムを送ってほしい」
第一次世界大戦が始まると、フランス領インドシナから多数のベトナム人兵士・労働者がヨーロッパへ送られました。
戦争史研究によると、ヨーロッパへ渡ったベトナム人たちはヌックマムの供給を求め、フランス軍当局はインドシナから輸送するようになります。

さらに輸送を容易にするため、ヌックマムを脱水し、フランスで水を加えて戻す方法まで研究されました。
それまでフランス側には、ヌックマムを単に「米へ味をつける調味料」とみる認識もありました。しかし戦時下では、その栄養的役割まで科学的に研究されるようになります。
この出来事から分かるのは、ヌックマムが単なる好みの調味料ではなく、海外へ移動したベトナム人の食生活を維持するため、軍当局が輸送方法まで検討する食品だったということです。
出典:1914-1918-Online, “Food and Nutrition (Indochina)”
1914年~ — パスツール研究所がヌックマムを科学的に調べ始める
1914年ごろから、ヌックマムは本格的な科学研究の対象になっていきます。
研究を始めたのは、当時の Sài Gòn パスツール研究所です。その中心となったのが、研究所で化学研究を担当していた E. Rosé(E. ロゼ)という研究者でした。
Rosé は研究室でヌックマムの成分を分析するだけでなく、主要産地だった Bình Thuận や Phú Quốc へ出向き、実際の製造現場も調査しました。
研究の目的は、ヌックマムの中で何が起きているのかを科学的に明らかにすることでした。魚を高濃度の塩とともに仕込むと、魚のたんぱく質はどのように分解され、液体へ移っていくのか。そして、製品ごとの品質の違いを、どの成分を測れば比較できるのか — こうしたことが調べられていきます。

この研究には、ヌックマムの成分や発酵の仕組みを明らかにすることに加え、市場に出回る偽造品を科学的に見分ける目的もありました。当時は、薄めたり別の原料を混ぜたりした製品が問題になっており、「何を本物のヌックマムと呼ぶのか」を科学的な根拠で判断する必要が生じていました。
総窒素(製品中の窒素成分全体)やアミノ酸態窒素(アミノ酸に由来する窒素)などを使ってヌックマムの品質を考える流れも、この時代の研究へつながっています。
出典:Hiệp hội Nước mắm truyền thống Việt Nam「Công tác quản lý nghề nước mắm trước năm 1945」/Institut Pasteur de Saïgon, Rapport au conseil de gouvernement(1917)
1910年代~ — 偽造品対策から「ヌックマムの定義」が必要になる
科学分析が必要とされた大きな理由の一つが、市場に出回る偽造品や極端に薄めた製品を見分けることでした。
1933年に業界側からまとめられた記録では、1913年ごろから Sài Gòn・Chợ Lớn の市場で、ヌックマムを薄めるなどして量を増やした偽造品が問題になった、とされています。
こうした問題を受け、1916年には特別委員会が設けられ、同年12月21日にはヌックマムの定義や取引を規制する規定が出されました。その後も1924年、1926年、1930年と規定の改廃が続きます。
1930年の規定では、ヌックマムという名称を魚と海塩を基礎とする伝統的な製法へ結びつけながら、許可される補助材料や禁止行為を定め、品質を窒素成分などで管理しようとしました。
このように、1916年以降、何をヌックマムとして販売してよいのかを、成分と法令の両方から定める試みが進みます。20世紀初頭にはすでに、偽造対策、品質分析、名称の管理が一体の問題として扱われていたのです。
参考:「Management of the fish sauce industry before 1945」/Vo Phuc Toan & Nguyen Thi Anh Nguyet (2026), “Vietnamese Fish Sauce under Colonial Rule”
1931年 — ヌックマム研究が一冊の体系的な報告にまとまる
1931年には、それまで約16年間に蓄積されたヌックマム研究が、製造法から化学、栄養、流通、偽造対策までを扱う体系的な報告としてまとめられました。
それが、J. Guillerm の 『L’Industrie du Nuoc-Mam en Indochine(インドシナのヌックマム産業)』です。
現在の商品ラベルで見る độ đạm(ヌックマム1L中の総窒素量を基準にした指標)や、窒素成分による品質評価につながる考え方は、この時代の研究ですでに扱われています。経験的に判断されていたヌックマムの品質を、分析値という共通の物差しでも捉える研究が本格化していました。
参考:国立民族学博物館 石毛直道アーカイブ(Guillerm 1931ほか)
1933年 — ヌックマムの「瓶詰め規制」をめぐって大きな反対運動が起きる
1933年、フランス領インドシナでは、ヌックマムの品質や衛生を管理するため、瓶詰めや容器の管理をより厳しく統制しようとする動きが起こりました。
背景にあったのは、前述した薄めたり、品質の低いものを混ぜたりして販売する偽造・粗悪品の問題です。植民地当局は、「どのような製品をヌックマムと呼べるのか」「どのように品質を確認するのか」を、化学分析と制度の両方から整理しようとしていました。
1933年4月26日に公布された規定では、ヌックマムの定義や総窒素量などの品質条件に加え、容器には製品区分と規定に適合していることを示す表示を付けることが求められました。一方、商標・原産地・販売者名や住所などは、取引時の契約書や請求書に記載する事項として定められています。つまり、原産地まで容器のラベルへ表示するよう定めた制度ではありませんでした。
ところが同じ1933年、さらに一歩踏み込み、Bình Thuận などから送られてきたヌックマムを Sài Gòn の中央施設で受け入れ、分析して窒素量を確認したうえで瓶詰めし、開封・改ざんしにくい方法で封緘するという構想が議論されます。当時の資料には、中央施設へ分析室や瓶詰め設備を置き、パスツール研究所が各ロットを分析する案まで記されています。
しかし、この瓶詰め・封緘を事実上義務化する案は大きな反発を招きました。反対側が強く問題視したのは、専用の瓶や封緘にかかる費用です。1933年10月の Cochinchine(フランス植民地期のベトナム南部)植民地評議会では、瓶詰めを義務づければ消費者が負担する価格が2~3倍になるおそれがあると主張され、とくに低所得層にとって日常的な必需品であるヌックマムの値上がりが問題とされました。
また、問題は価格だけではありませんでした。特定の瓶や封緘方式が制度と結びつけば、生産や流通が特定の設備・事業者へ集中し、商業上の自由や消費者の選択肢が狭くなるのではないかという懸念も出ました。
一方、推進側は、瓶を密封すれば流通途中で水や別の液体を加える偽造を防ぎやすくなり、生産者が「本物のヌックマム」として販売しやすくなると反論しました。
つまり、単純な「衛生管理への賛成・反対」ではなく、品質保証の利益と、それを誰がどの仕組みで管理するのかが争点となったのです。

当時の新聞には、この問題を風刺する記事まで登場しています。1933年11月24日付の『Phong Hóa』では、Lý Toét と Ba Ếch の会話を通じて、ヌックマムをすべて専用瓶へ入れれば瓶や特殊な栓を扱う側が大きな利益を得るのではないかと皮肉っています。
Lý Toét(リー・トエット)とBa Ếch(バー・エック):
風刺画に登場し当時の新聞や雑誌で親しまれた架空の庶民像。Lý Toét は、近代化する都市社会に戸惑う旧弊な村人として描かれた風刺的人物。一方の Ba Ếch は、南部の庶民を思わせる姿で描かれたキャラクターでした。二人のやり取りを通して、ヌックマムが当時の暮らしに深く入り込んでいたことが、ユーモアを交えて描かれました。
反対の動きは強く、翌1934年の商工会議所代表の報告では、政府がこの計画をベトナム人代表の多数と、多くのフランス人代表からの反対を受けて撤回したと記録されています。
この1933年の論争を、2026年に改めて分析した研究があります。ベトナム国家大学ホーチミン市校・人文社会科学大学の Võ Phúc Toàn と Nguyễn Thị Ánh Nguyệt は、2026年に発表した論文 “Vietnamese Fish Sauce under Colonial Rule: Coastal Ecological Knowledge and Human Sustainability in a Traditional Food System (1914–1933)” で、植民地期の行政資料、パスツール研究所の研究、当時のベトナム語・フランス語新聞などを使って、この時期のヌックマム産業を分析しています。
つまり1933年の論争では、「品質を守る共通ルールが必要か」だけでなく、「そのルールをどう運用し、誰が管理し、その費用を誰が負担するのか」までが争点になったのです。
出典:
1933年4月26日フランス共和国大統領令(nước mắm・nước nhứt の定義、品質条件、表示・取引条件)
Cochinchine 植民地評議会・Grand Conseil 関連資料(1933–1934年、ヌックマムの瓶詰め・封緘・集中管理案をめぐる議論と撤回)
Phong Hóa 第74号(1933年11月24日)「Câu truyện nước mắm」
Vo Phuc Toan & Nguyen Thi Anh Nguyet (2026), “Vietnamese Fish Sauce under Colonial Rule: Coastal Ecological Knowledge and Human Sustainability in a Traditional Food System (1914–1933)”
1910~40年代 — 製造現場では大産地とブランドが成長する
1925年 — Bình Thuận は4,000万 L規模の大産地に
近代の大規模生産を象徴するのが、Phan Thiết を中心とする Bình Thuận です。
Guillerm が紹介した1925年の統計では、Bình Thuận にヌックマムの製造者が638、大型の仕込み樽が1,525基、中小の樽が7,759基あり、同年の出荷量は 40,618,160 Lと記録されています。
Phan Thiết では、このようなヌックマムの製造施設・製造家を nhà lều(ヌックマムの製造施設・製造家を指す地域的呼称)と呼んできました。大規模で名の知られた生産者は hàm hộ(特に大規模な製造家・製造世帯を指す呼称)と呼ばれることもあります。ただし Guillerm の1925年統計は「638の製造者」と記しているため、本稿でも同表現としています。
ひとつの容器に3~3.25 Lほど入る tĩn を基準に考えると、4,000万 Lという出荷量は1,000万個を超える容器に相当します。Bình Thuận はこの時点で、家庭内生産の延長では説明できない巨大な製造・物流産業になっていました。

ガラス瓶の前 — 1,000万個を超える tĩn が流通を支えた
この大規模な生産を支えた物流容器の一つが、焼き物の tĩn でした。現在のガラス瓶やPETボトルに近い役割を、当時の南部・南中部では大量の tĩn が担っていたのです。
Phan Thiết のヌックマムは tĩn に詰められ、沿岸を走る帆船などで Sài Gòn や周辺市場へ送られました。
Phú Quốc でも同じように海上輸送が不可欠で、風や天候によって航海日数が大きく変わりました。ヌックマム産業は、樽の中で発酵させる技術だけでなく、容器を作る人、船で運ぶ人、市場で売る人まで含む物流産業でもあったのです。
参考:J. Guillerm『L’Industrie du Nuoc-Mam en Indochine』(1931)/Tuổi Trẻ「Phú Quốc, trăm năm nước mắm」
北部の Vạn Vân — 大規模なヌックマム製造から「ブランド」へ
北部でも、20世紀前半にはヌックマムの大規模生産とブランド化が進みました。その代表例が、現在の Hải Phòng 市 Cát Hải にあった Vạn Vân(ヴァンヴァン)です。
Vạn Vân は、実業家 Đoàn Đức Ban が経営したヌックマムの製造業者であり、その商品のブランド名でもあります。1916年に Cát Hải で設立されたとされ、北部を代表するヌックマムブランドへ成長しました。
1959年、Vạn Vân を含む Cát Hải の民間ヌックマム製造業者などを母体として、公私合営の Cát Hải ヌックマム企業が設立されました。その後は 「nước mắm Cát Hải」 の名が使われるようになり、Vạn Vân の生産基盤は現在の Cát Hải のヌックマム産業へ引き継がれていきました。
Vạn Vân は、規模の面でも当時際立った存在でした。Hải Phòng 市の歴史資料が引用する1936年のフランス資料では、当時のベトナム最大のヌックマム製造施設と記録されています。
同資料によると、製造所には、1個あたり約400 kgの chượp(魚と塩を混ぜて発酵・熟成させている仕込み)を入れる甕が1万個あったとされています。
chượp(チュオップ)という呼び名は、この仕込みそのものを指します。400kg級の仕込みを入れる甕が1万個あったという記録からも、家庭単位の製造とはまったく異なる規模だったことが分かります。
さらに Vạn Vân が興味深いのは、作る量を増やしただけでなく、売り方も変えたことです。
当時は、ヌックマムを大きな甕や樽に入れ、そこから必要な量だけ量り売りする方法も一般的でした。Vạn Vân はそこから一歩進み、ヌックマムを瓶に詰め、ラベルを貼り、商標として登録しました。
これによって消費者は、瓶やラベルを見れば「これは Vạn Vân が作ったヌックマムだ」と製造元を見分けられるようになります。
つまり、産地や製造家の評判だけで売る段階から、瓶・ラベル・商標によって、製造元そのものをブランドとして示す時代へ移り始めていたのです。

Vạn Vân の知名度は非常に高く、その名は北部の名産を並べた昔の言い回しにまで登場します。
“Dưa La, húng Láng, nem Báng, tương Bần,
nước mắm Vạn Vân, cá rô đầm Sét.”
日本語にすると、だいたい次のような意味です。
「La の漬物、Láng の香草、Báng のネム、Bần の発酵大豆調味料、
Vạn Vân のヌックマム、Đầm Sét のキノボリウオ」
La、Láng、Báng、Bần、Vạn Vân、Đầm Sét と、それぞれの土地・名前を代表する食べ物を次々に並べた言い回しです。ここで nem は肉を使ったベトナムの伝統的な加工食品、tương は大豆を発酵させて作る調味料を指します。
Vạn Vân のヌックマムは、北部を代表する名物として、人々が口にする言い回しの中に名前が残るほど知られていました。
Vạn Vân から現在の Cát Hải へ
Vạn Vân は、20世紀前半の北部を代表するヌックマム製造業者・ブランドでした。1959年の公私合営化を経て、その生産基盤は後の nước mắm Cát Hải へつながっていきます。
Vạn Vân の歴史からは、戦前の民間ヌックマム産業が、戦後北部の新しい生産体制へ移っていく過程も見ることができます。
出典:
Hải Phòng 市「Vạn Vân (?–1945)」
Hải Phòng 市党史資料『Lịch sử Đảng bộ nhân dân thị trấn Cát Hải』
1938年 — Phú Quốc の生産者が産地名を守るため組織化
Phú Quốc では1930年代になると、「Phú Quốc」という産地名を偽物から守ることが生産者自身の課題になります。
1938年には Phú Quốc のヌックマム生産者による職業組織の規約が認可され、翌1939年にかけて組織活動が進みます。
背景には、価格の問題や容器不足だけでなく、Phú Quốc 産ではないのに Phú Quốc の名を使う商品への懸念もありました。
組織では、出荷量に応じた証明ラベルの管理などを行い、産地名の信用を守ろうとしました。
現在の地理的表示(GI)ができる何十年も前から、Phú Quốc ではすでに産地名の不正使用をどう防ぐかが課題になっていたのです。
参考:Tuổi Trẻ Cuối Tuần「Trăm năm thăng trầm nước mắm Phú Quốc」
1943年 — 主要産地の生産規模が記録される
第二次世界大戦中の1943年に刊行されたフランス語資料には、当時の主要なヌックマム産地を比較した推計があります。
それによると、南中部の Bình Thuận(Phan Thiết・Mũi Né・Phan Rí など)で約3,500万 L、Phú Quốc で約600万 L、北中部の Nghệ An・Thanh Hóa で約500万 L、北部の Cát Hải で約200万 L、現在の Đà Nẵng にある Nam Ô で約100万 L。合計は約5,000万 Lと推計されています。
この1943年の数字はフランス語資料による推計であり、現代の統計と同じ精度で比較できるものではありません。それでも、大産地が南部だけでなく、中部・北部にも存在していたことは確認できます。20世紀前半までに、ヌックマムはベトナム各地で生産される全国規模の産業になっていました。
出典:ベトナム国家文書センター「Nước mắm – Tinh túy của ẩm thực Việt Nam qua ghi chép của người Pháp」(1943年資料の紹介)
1945~1975年 — 戦争の中でも、ヌックマムは作られ続けた
第一次インドシナ戦争(1946~1954年)、南北分断、そしてベトナム戦争は、ヌックマム産業の人員・設備・物流へ直接影響しました。
施設や船を失った産地もあれば、戦時供給を続けた産地、大規模な商業生産を維持した産地もありました。 ここでは、その違いを見ていきます。
1947年の Phú Quốc — 5,000個を超える tĩn が海へ沈んだ家も
Phú Quốc の生産家には、第一次インドシナ戦争の被害を伝える具体的な記憶が残っています。
Tuổi Trẻ が紹介したある生産家の回顧では、1947年、商船が抗戦勢力への補給に使われていると疑われ、フランス軍によって攻撃され、5,000個を超える tĩn に入ったヌックマムが海へ沈み、約200基の仕込み樽を持つ施設も焼かれたとされています。
この記録は一つの生産家の経験であり、Phú Quốc 全体の被害を示す統計ではありません。それでも、戦争によって仕込み中の chượp、樽、完成品、容器、輸送船を一度に失い、製造と販売の基盤そのものが破壊されたことが具体的に分かります。
参考:Tuổi Trẻ「Phú Quốc, trăm năm nước mắm」
1954年以降 — 同じヌックマムが、南北で違う経済体制の中へ
1954年のジュネーヴ協定後、ベトナムは北緯17度線付近を境に暫定的に南北へ分かれ、ヌックマム産業も南北で異なる経済体制の中へ入ります。
北部 — Cát Hải では、公私合営へ
北部の Cát Hải では、Vạn Vân を含む民間事業者などを母体に、1959年に Xí nghiệp công tư hợp doanh Nước mắm Cát Hải(公私合営のCát Hảiヌックマム企業)が成立します。
Công tư hợp doanh は、漢字では「公私合営」です。つまり、社会主義化の過程で行われた、国家と旧民間資本を組み合わせた企業形態です。従来の家族・民間企業中心の生産から、国家が強く関与する生産体制へ組み替えられていきました。
Hải Phòng の公的な企業史では、米軍による爆撃や海上への機雷敷設が続く中でも、魚や chượp を確保し、生産を維持したと記されています。
ここでいう chượp(チュオップ)とは、魚と塩を混ぜて発酵・熟成させている仕込みそのものです。
Hải Phòng の女性運動史には、Cát Hải などの水産加工現場で、工場が被害を受けても「人民と兵士へヌックマムを供給する」ため生産を維持するという趣旨の記録も残っています。北部ではヌックマムが、戦時下でも供給を続けるべき食品として位置づけられていました。
出典:Hải Phòng 市党史資料「Công ty chế biến dịch vụ thủy sản Cát Hải」/Hải Phòng 市女性運動史(戦時下のヌックマム供給に関する記録)
南部 — Phan Thiết や Phú Quốc では民間商業生産が続く
一方、南部では Phan Thiết の nhà lều や Phú Quốc の nhà thùng を中心に、民間の商業生産が続きました。
南部でも、戦争の影響は産地によって異なりました。Phú Quốc では、1945年以前には約90軒あった nhà thùng が、1965年には32軒、1972年には30軒まで減ったとする資料があります。
一方、Phan Thiết では、1975年以前の最盛期に500を超える hàm hộ・nhà lều があり、年間約4,000万 Lを生産していたとする回顧資料があります。少なくともこの数字を見る限り、Phan Thiết は戦争が続く中でも、南部有数の大産地としての生産規模を維持していました。
つまり、同じ南部の主要産地でも、Phú Quốc では戦争期に製造所の減少が数字に表れている一方、Phan Thiết では大規模な生産が1975年まで続いていました。Phan Thiết の産業が大きく再編され、生産量が急減するのは、むしろ南北統一後の統制・配給経済に入ってからです。
ベトナム戦争期のヌックマムを大きく見ると、北では国家主導の企業体制と戦時供給の中で生産を続け、南では民間の産地・市場を中心に生産を続けた、という違いが見えてきます。

参考:Tuổi Trẻ「Nước mắm Phan Thiết thời bao cấp」/Tạp chí Công Thương「Nước mắm Phú Quốc và câu chuyện phát triển một nghề truyền thống」
1974年 — 統一前の北ベトナムで技術標準が作られる
1974年の技術標準は、南北統一前の北ベトナム側で作られたものです。
1974年2月15日、当時の ベトナム民主共和国、つまり北ベトナムの水産総局は、水産加工品に関する12の業界技術標準を公布しました。その中にヌックマムの技術要件を定める 58TCN 7-74 が含まれていました。
58TCN 7-74 は、北ベトナムの計画経済・水産行政の中で作られた業界技術標準です。
出典:Quyết định 98-TS/QĐ-VNC(1974年2月15日)
1975~1986年ごろ — 統一後の配給・統制経済で産地が再編される
1975年に戦争が終結し、1976年に南北を統一した ベトナム社会主義共和国が成立すると、南部のヌックマム産業を取り巻く仕組みも大きく変わりました。
それまで Phan Thiết や Phú Quốc では、多くの民間生産者が自分たちで魚や塩を仕入れ、ヌックマムを作って市場へ販売していました。しかし統一後は、北部ですでに採用されていた国家による計画・管理を中心とした経済の仕組みが南部にも広げられていきます。
ベトナムでは、この時期を一般に thời bao cấp(トイ・バオカップ) と呼びます。
thời は「時代・時期」、bao cấp は、国家が物資や資金などを計画に基づいて供給・配分する仕組みを指す言葉です。日本語では、ここでは分かりやすく「配給・統制経済の時代」と考えるとよいでしょう。
この時代には、国家が生産計画、原料の供給、価格、流通などを強く管理しました。米や砂糖、布、燃料など多くの日用品は、tem phiếu(配給票)などを使って一定の基準に従って供給されました。
ヌックマムの生産者も、この管理の対象となりました。民間の nhà lều や nhà thùng は、魚や塩の仕入れ、生産量、販売先などを従来のように自ら決めて商売を続けることが難しくなりました。
その結果、南部の主要産地では、生産者の統合や公私合営・国営企業への再編が進み、戦前から続いてきたヌックマム産業の姿が大きく変わっていきました。
Phan Thiết — 4,000万 L規模から、1987年には800~900万 Lへ
Phan Thiết では、大規模な hàm hộ・nhà lều が公私合営企業へ組み込まれ、国営のヌックマム企業も設立されました。
Tuổi Trẻ が生産者の回顧と業界関係者の説明をまとめた記事では、1975年以前に年間約4,000万 L規模だった Phan Thiết の生産量が、1987年には800~900万 L程度まで低下したとされています。
多くの古いブランドや大型 nhà lều が姿を消しました。

家の中で「こっそり chượp を仕込む」人もいた
生産量の減少だけでなく、家業の技術をどう残したかを伝える個人の証言もあります。
Phan Thiết のある生産家の回顧では、家業を続けられなくなった後も、母親が少量の魚を人目につかないよう買い、家の中の約200 Lの陶製容器で chượp を仕込み、できたヌックマムを少量ずつ運んで売っていたと語られています。
これは一家庭の経験であり、時代全体を代表するものではありません。ただし、正式な大規模生産が難しくなった時期にも、家庭レベルで chượp を仕込み、製造技術をつないだ例があったことを具体的に伝えています。
出典:Tuổi Trẻ「Nước mắm Phan Thiết thời bao cấp」
1980年代後半~2000年 — Đổi Mới とともに再び市場へ
1986年、ベトナムは Đổi Mới(ドイモイ)と呼ばれる改革路線を本格化させます。
計画経済の仕組みを残しながらも、市場原理や民間経済をより広く認め、対外貿易も開いていく転換でした。
ヌックマム産業も、そこから再び動き始めます。
Phú Quốc — 制度移行期にフランス輸出を開拓する
市場開放がまだ途中だった1985~1986年ごろ、Phú Quốc の Hưng Thành はフランスへの輸出ルートを探し始めました。
当時は民間企業が自由に輸出できる環境が整っておらず、法人資格のある国営輸出入企業の仕組みを借りたり、輸出に必要な瓶や段ボールの確保にも苦労したと回顧されています。
それでも輸出が軌道に乗ると、およそ3か月ごとに1コンテナ、約9,000 Lをフランスへ送り、1988年にはニューカレドニアの Nouméa 向けに1万本の契約も得たとされています。
この輸出は、制度移行の途中ですでに始まっていました。生産者は国営輸出入企業の仕組みを利用しながら、海外市場への道を開いていったのです。
出典:Tuổi Trẻ「Tìm đường xuất khẩu nước mắm」
1990年代 — Phan Thiết でも民間生産が回復へ
Phan Thiết でも、Đổi Mới とともにヌックマム産業が再び動き始めます。
配給・統制期には大きく縮小していた生産は、1990年ごろから徐々に回復しました。Phan Thiết のヌックマム業界関係者の証言では、その後、生産量は年間およそ2,500万L規模まで戻ったとされています。
ただし、これは戦前から続く古い hàm hộ がそのまま復活したという意味ではありません。hàm hộ は Phan Thiết で ヌックマムの製造家を指して使われてきた地域的な呼び名で、Nguyễn <阮>朝期には製造者をまとめる職業組織を指し、20世紀には特に大規模な製造家・製造世帯を指すようになりました。旧来の製造家で本格的に生産へ戻った例は限られ、代わって、配給・統制期期にヌックマムの売買などを経験した人々から新しい生産者が育っていきました。
一方、製造現場では、魚と塩を仕込み、長期間 chượp する従来の方法も引き継がれました。変わったのは製法だけではなく、生産者が自ら原料を仕入れ、商品を作り、市場へ売る仕組みが再び広がっていったことでした。

1993年 — 全国の国家標準 TCVN 5107 へ
市場が再び広がる一方で、品質管理は国家標準として整備されていきます。
1993年には、ベトナム国家標準 TCVN 5107:1993 が制定され、その後2003年、2018年と改訂されました。
| 年 | 主な動き |
|---|---|
| 1974 | 北ベトナムで業界技術標準 58TCN 7-74 |
| 1993 | TCVN 5107:1993 |
| 2003 | TCVN 5107:2003へ改訂 |
| 2018 | 現行の TCVN 5107:2018へ改訂 |
1993年版や2003年版では、ヌックマムを Đặc biệt(特別)、Thượng hạng(上級)、Hạng 1(1級)、Hạng 2(2級) の4等級に分けていました。一方、現行の2018年版では、この全国共通の4等級制は採用されていません。
1993年から2018年までの改訂の中で、国家標準の内容と品質の分類方法も変化してきました。
2001~2015年 — 「産地を守る」と「全国ブランド化」が同時に進む
Phú Quốc と Phan Thiết — 産地名を法的に守る
21世紀に入ると、品質を全国共通の数値で測る仕組みとは別に、産地名そのものを保護する動きが強くなります。
代表例が GI(Geographical Indication、地理的表示)です。特定の地域に由来する品質・評判・特徴を持つ産品について、その地名を知的財産として保護する仕組みです。
Phú Quốc のヌックマムは2001年6月にベトナムでGI として保護され、ベトナムで最初期に登録された地理的表示となりました。Phan Thiết のヌックマムも2007年にGI として登録されています。
さらに Phú Quốc は2012年、EU でも PDO(Protected Designation of Origin、原産地名称保護)として登録されました。
EU の登録仕様では、Phú Quốc の名称使用に加えて、原料、自然発酵、木樽、抽出、品質指標、地理的範囲などが産地と結びつけて定められています。
1930年代には生産者自身が Phú Quốc の名の不正使用へ対応していましたが、2001年のGI登録によって、産地名を法的に保護する現代的な仕組みへ移ります。
出典:ベトナム知的財産庁 GI 情報/EU Phú Quốc PDO Single Document
2000年代 — 全国ブランド商品も市場を広げる
これと並行して市場では、全国どこでも同じブランド商品を買える流通も拡大します。
大型小売店、広告、全国的な販売網の発達によって、特定産地の製造家から量り売りで買うだけではなく、全国どこでも同じ名前・同じ容器の商品を買う市場が急速に大きくなります。
たとえば食品企業 Masan Consumer は2007年に Nam Ngư などの魚醤系ブランドを投入し、大規模な広告・流通網を使って市場を拡大しました。
この時期には、「ヌックマム」という一つの市場の中に、産地の製造家の商品と全国ブランド商品が並ぶようになりました。
参考:Masan Consumer 2025年年次報告(Nam Ngư の発売年を2007年と記載)
2016~2019年 — 安全情報と製造ルールをめぐる二つの論争
2016年 — 「総ヒ素」を「毒性の高い無機ヒ素」と同じように扱い、大きな騒動に
2016年、ベトナムでヌックマムに含まれるヒ素をめぐって、大きな騒動が起きました。
この問題を理解するには、まず「ヒ素には種類があり、種類によって毒性が大きく違う」ことを知っておく必要があります。
食品中のヒ素は、大きく無機ヒ素と有機ヒ素に分けて考えられます。
無機ヒ素は毒性が高く、長期間多く摂取すると、皮膚障害や循環器系への影響、さらに皮膚・肺・膀胱などのがんとの関連が確認されています。そのため、食品安全上で特に問題になるのはこちらです。
一方、魚や甲殻類には、もともと有機ヒ素が含まれています。魚介類で主要な形の一つが arsenobetaine(アルセノベタイン)で、これは人体への毒性が非常に低く、非毒性とみなされています。
そのため、魚を原料にするヌックマムでは、有機ヒ素が検出されることがあります。
「総ヒ素」とは?
総ヒ素は、無機ヒ素と有機ヒ素など、試料に含まれるさまざまな形のヒ素をまとめて測った値です。
したがって、総ヒ素が多い=毒性の高い無機ヒ素が多いとは限りません。
食品としての安全性を判断するには、「ヒ素が全部でどれだけあるか」だけではなく、そのうち毒性の高い無機ヒ素がどれだけ含まれているのかを区別して調べる必要があります。
2016年当時のベトナムでは、食品中の重金属汚染限度を定めた国家技術規則 QCVN 8-2:2011/BYT により、ヌックマムを含む nước chấm(調味ソース類)区分の無機ヒ素について、最大 1 mg/kgという基準が設けられていました。
つまり、この基準と比較すべきなのは「無機ヒ素の量」です。
ところが2016年10月、消費者団体 VINASTAS(Hội Tiêu chuẩn và Bảo vệ Người tiêu dùng Việt Nam=ベトナム標準・消費者保護協会)が、全国で販売されていたヌックマム150検体の調査結果を発表しました。
VINASTAS は、そのうち101検体、約67%で「総ヒ素」が1 mg/Lを超えたと発表し、これを基準値を超えた製品として扱いました。
ここに大きな問題がありました。
VINASTAS が測っていたのは総ヒ素です。一方、QCVN 8-2:2011/BYT で規制されていたのは、毒性の高い無機ヒ素でした。
つまり、測ったものと、基準値が対象にしているものが違っていたのです。
さらに VINASTAS の発表では、arsen(ヒ素)を、ベトナム語で毒性の高いヒ素化合物を想起させる thạch tín と同一視するような表現が使われました。このため、「多くのヌックマムに毒性の高いヒ素が基準を超えて含まれている」と受け取られ、大きな不安が広がりました。
しかし VINASTAS 自身も、総ヒ素が高かった101検体のうち20検体を選んで無機ヒ素を追加検査しています。その20検体からは、無機ヒ素は検出されませんでした。
つまり、VINASTAS の調査結果そのものの中にも、「総ヒ素は高くても、そのヒ素が毒性の高い無機ヒ素とは限らない」ことを示す結果がすでに含まれていたのです。
その後、ベトナム政府の指示を受け、保健省、商工省、農業農村開発省などによる合同検査が行われました。
伝統的な製法と工業的な製品の双方を含む、82事業者・210ブランドから247検体が採取され、4つの専門検査機関で調べられました。
ベトナム保健省は、検査した247検体すべてで、無機ヒ素が許容上限を超えていなかったと発表しました。
さらに商工省などによる VINASTAS への調査では、調査方法の独立性・信頼性・透明性にも問題があったとされ、特に総ヒ素を無機ヒ素の基準と比較し、ヒ素を thạch tín と同一視するように発表したことは、科学的・法的根拠がなく、消費者に混乱を与えたと判断されました。
VINASTAS はその後、発表内容が不正確だったとして訂正し、消費者やヌックマム生産者などへ謝罪しています。
出典:
VnExpress「Vinastas công bố kết quả khảo sát chất lượng nước mắm」
ベトナム保健省「Điểm tin ngày 01/11/2016」
ベトナム保健省「Thông tin báo chí kết quả kiểm tra nước mắm」
ベトナム商工省「Vinastas có sai sót trong vụ công bố khảo sát nước mắm」
ベトナム商工省「Vinastas cải chính thông tin về kết quả khảo sát nước mắm」
2019年 — ひとつの製造規範で、全国の作り方を扱えるのか?
2019年には、ヌックマムの製造実務に関する国家標準案 TCVN 12607:2019 をめぐって大きな議論が起きました。
この論争の中心となったのは、製法の異なる全国の生産者へ、一つの実施規範をどこまで共通適用できるのかという点でした。Phú Quốc の木樽、Phan Thiết の仕込み、北部の製法など、地域によって工程や用語が異なるためです。
関係機関は意見をさらに取り入れて見直すことになり、標準案はそのまま正式な規格として確定するには至りませんでした。
1933年の集中瓶詰め論争と2019年の標準案では時代も制度も異なりますが、どちらでも共通ルールと地域の製造実態をどう両立させるかが論点になりました。
出典:国家標準計量品質委員会 TCVN 12607:2019 草案に関する公式情報
2019年~現在 — 製法を文化として守り、「伝統」の制度化を進める
Nam Ô と Phú Quốc — 製造技術が文化遺産になる
21世紀の保護は、産地名だけではなく、作り方そのものへ広がります。
Đà Nẵng の Nam Ô では、伝統的なヌックマム製造技術が2019年に国家無形文化遺産へ登録されました。
Phú Quốc のヌックマム製造技術も2021年に国家無形文化遺産へ登録されています。
さらに、Phú Quốc のヌックマムに続いて、 Nam Ô のヌックマムも2024年に、GI(地理的表示)としても登録されました。(Phú Quốc のヌックマムは2001年登録)
無形文化遺産では、完成品に加えて、魚の選び方、塩との合わせ方、仕込み、熟成、抽出など、地域で受け継がれてきた知識と技術そのものが保護の対象になります。

出典:文化・スポーツ・観光省(Nam Ô、2019年)/Quyết định 1730/QĐ-BVHTTDL(Phú Quốc、2021年)/ベトナム知的財産庁 Nam Ô GI 登録(2024年)
2024年~ — 「伝統的なヌックマム(nước mắm truyền thống)」の国家標準化が進められる
2024年、農業農村開発省のもとで、nước mắm truyền thống(伝統的なヌックマム)を対象とする国家標準 TCVN の草案が作成され、意見募集が行われました。
草案では、原料、発酵・熟成期間、製造工程、品質、安全性、添加物、表示などについて要件を定め、各地で受け継がれてきたヌックマムの製造体系を、全国共通の国家標準として整理することが試みられています。
製造工程では、魚と塩から作った chượp を自然発酵・熟成させ、熟成した chượp から液体を取り出して製品へ仕上げていく流れが示されています。
その中には、熟した chượp から最初に得る液を指す nước mắm cốt、抽出後の chượp へ塩水などを加えて得る後続の液 nước mắm long、異なる液を組み合わせて品質を整える pha đấu に関わる工程も含まれています。
Phú Quốc などでは、熟成した chượp からまず cốt を取り、その後の chượp を利用して long と呼ばれる後続の液を得ます。さらに、cốt や long など性質の異なる液を pha đấu(配合)して、狙った品質のヌックマムへ仕上げることがあります。
こうした熟成後の抽出や配合まで含めて、伝統的なヌックマムの製造工程を技術的に整理しようとしている点が、2024年の草案の特徴の一つです。
また、ベトナム各地では、仕込みに使う容器や具体的な製造方法にも地域差があります。Phú Quốc では大型の木樽が特徴的ですが、他の産地では異なる容器や仕込み方法が受け継がれてきました。
草案では、こうした地域ごとの製造実態も踏まえながら、原料から発酵・熟成、抽出、配合、完成品の品質までを含む一連の技術体系として「伝統的なヌックマム」を整理しようとしています。
ただし、2026年8月現在、この専用標準が正式な現行 TCVN(国家標準)として公布されたことは確認できません。
ベトナム伝統ヌックマム協会は2026年7月にも、「伝統的なヌックマム」に関する専用の TCVN と QCVN(国家技術規則)を制定するよう政府へ提言しています。
2024年に始まった国家標準化の試みは、各地で受け継がれてきた製造技術を、全国共通の制度の中でどのように整理していくかという現在進行中の取り組みです。
出典:Hiệp hội Nước mắm truyền thống Việt Nam「Thông báo về việc lấy ý kiến góp ý Dự thảo TCVN “Nước mắm truyền thống”」(2024年草案の意見募集)/同告知から公開された2024年草案資料一式/Hiệp hội Nước mắm truyền thống Việt Nam「VATFI đề xuất cắt giảm, đơn giản hóa TTHC, ĐKKD」(2026年7月、専用TCVN・QCVNの制定を提言)
100年以上続く課題 — 品質・名称・産地・製法をどう守るか
ここまでの出来事を並べると、時代ごとに形を変えながら、品質・名称・産地・製法をどう守るかという課題が繰り返し現れていることが分かります。
| 時代 | 問題になったこと |
|---|---|
| 1910年代 | 薄めるなどした偽造品と、ヌックマムの法的定義 |
| 1930年代 | 窒素成分による品質管理、瓶詰め規制、ブランド・産地表示 |
| 1938年~ | Phú Quốc の名を偽って使う商品への対策 |
| 2001年~ | GI / PDO による産地名の法的保護 |
| 2016年 | 総ヒ素と無機ヒ素をめぐる情報混乱 |
| 2019年 | 多様な製法を一つの実施規範でどう扱うか |
| 2024年~ | 「伝統的なヌックマム」を国家標準の中でどう位置づけるか |
こうして見ると、ヌックマムの歴史では、作り方や市場の変化とともに、何をヌックマムとして認めるのか、品質をどう測るのか、産地名をどう守るのか、各地の製造技術を制度の中でどう扱うのかという問題も、その時代ごとに現れてきたことがわかります。
現在進められている「伝統的なヌックマム」の国家標準化の試みも、こうした長い歴史の延長線上にあります。
史料のさらに前 — ヌックマムの「起源」はどこにある?
ここまで見てきたのは、史書や旅行記、行政資料などから、ある程度年代をたどることのできるヌックマムの歴史です。
しかし、997年の出来事を伝える史書よりさらに前までさかのぼり、魚と塩から液体調味料を作る技術が、いつ、どこで始まったのかを明らかにしようとすると、確認できる史料は少なくなります。
魚を塩とともに発酵させて作る魚醤は、東南アジアだけでなく、東アジアや古代地中海世界などにも存在しました。そこで、ヌックマムの起源を考えるうえでは、こうした各地の魚醤文化との関係も研究されています。
古代地中海の魚醤 garum(ガルム)とアジアの魚醤
ヌックマムとよく比較される魚醤の一つが、古代地中海世界の garum(ガルム)や liquamen(リクアメン)です。
古代ローマをはじめとする地中海世界では、魚や魚の内臓などを塩とともに発酵させ、そこから得られる液体を調味料として利用していました。
魚と塩を使い、発酵・熟成によって液体調味料を得るという点では、ヌックマムとよく似ています。
こうした地中海の魚醤とアジアの魚醤を比較研究したのが、文化人類学者の 石毛直道です。
石毛は、地中海とアジアの魚醤に共通する特徴があることを指摘する一方、地中海の魚醤製造技術がアジアへ伝わったことを示す具体的な証拠は確認できないとしています。
魚が豊富に得られ、保存のために塩を利用する地域では、魚を塩漬けにして発酵させ、そこから生じる液体を調味料として利用する技術が、それぞれの地域で生まれた可能性もあります。
したがって、garum とヌックマムには製法上の共通点がありますが、両者の間に直接の伝播関係があったかどうかは、現在の史料からは確認できません。
Champa(チャンパ)と中部ベトナムの魚醤文化
ヌックマムの起源を考えるうえで、もう一つ注目されるのが Champa(チャンパ)と中部ベトナムの魚醤文化との関係です。
Champa は、現在の中部ベトナムを中心に長く存在したチャム系の諸政権・文化圏の総称です。南シナ海に面した沿岸地域を基盤とし、海上交易を活発に行っていました。
現在の中部ベトナムには、Phan Thiết や Nam Ô など、後に重要なヌックマム産地となる地域があります。また、この地域では長い歴史の中で Chăm(チャム)と Việt(ベト)の人々が接触し、文化的な交流を続けてきました。
こうした歴史的背景から、中部沿岸の魚醤文化の形成と Chăm の食文化との関係を考える見解があります。ベトナム伝統ヌックマム協会が紹介する議論でも、歴史学者 Trần Quốc Vượng や Chăm 文化研究者 Inrasara らの見解をもとに、Việt と Chăm の文化交流と魚醤文化との関係が論じられています。
一方、Champa の時代に、現在のヌックマムへ直接つながる製造技術が成立したことを示す史料や考古学的証拠は、現在のところ十分には確認されていません。
そのため、Champa は中部ベトナムの魚醤文化が形成されていく歴史的・文化的背景を考えるうえで重要ですが、現時点でヌックマムの起源を Champa に特定すること困難です。
参考:Hiệp hội Nước mắm truyền thống Việt Nam「Nói thêm về nguồn gốc nghề làm nước mắm ở Phan Thiết」
日本との交易や醤油文化との関係
16~17世紀の Hội An には日本人町が置かれ、日本と Đàng Trong の間で活発な交易が行われていました。こうした交流を通じて、日本とベトナムの食文化が互いに影響を受けた可能性はあります。
一方、ヌックマムについては、それよりはるかに古い997年の出来事を伝える史書にすでに名前が現れています。また17世紀初頭には、Cristoforo Borri が Đàng Trong の家庭で魚由来の液体調味料が日常的に使われていたことを記録しています。
したがって、16~17世紀の日越交易をヌックマム成立の起点とする説明は、現在確認できる史料の年代とは整合しません。
日本との交易が、その後のベトナムの食文化にどのような影響を与えたのかは、ヌックマムの起源とは別の問題として考える必要がありそうです。
現在、起源について分かっていること
古代地中海の garum とは製法上の共通点があり、中部ベトナムでは Chăm と Việt の長い文化交流がありました。また、東アジアや東南アジアの各地にも、魚を塩とともに発酵させる食文化があります。
ヌックマムの起源を特定の地域・民族・一つの伝播経路へ結びつけるには、まだ史料が足りないというのが現状です。
史料で分かるヌックマムの歩みを一本につなぐと
| 時代 | ヌックマムに起きたこと |
|---|---|
| 997年 | 後世の史書で、ヌックマムが宋使への貢納品として登場 |
| 1013年 | mắm と塩に関わる税制が史書に現れる |
| 17世紀 | 南北で日常的な魚の液体調味料を外国人が記録 |
| 18~19世紀 | 課税対象・地域交易品として大量に流通 |
| 19世紀末~ | 植民地の塩統制・広域市場の中へ組み込まれる |
| 1906年~ | Liên Thành など、近代的なベトナム人商業事業へ |
| 第一次世界大戦 | 欧州のベトナム人向けに輸送され、脱水技術まで研究 |
| 1914~30年代 | 科学分析、法的定義、偽造対策、ブランド化が進む |
| 1945~75年 | 戦争と南北分断の中でも、異なる体制で生産を継続 |
| 1975~86年ごろ | 配給・統制期の下で民間産地が再編され、Phan Thiết などで生産縮小 |
| 1986年~ | Đổi Mới(ドイモイ)と市場開放の中で生産・輸出が復活 |
| 1993年~ | TCVN による全国的な品質標準化 |
| 2001年~ | GIで産地名を法的に保護。Phú Quốc は後にEU PDOへ |
| 2016年 | 総ヒ素と無機ヒ素をめぐる安全情報の混乱 |
| 2019年 | 製法の異なる全国の生産者へ共通規範をどう適用するかが論争に |
| 2019・2021年 | Nam Ô、Phú Quốc の製造技術が国家無形文化遺産へ |
| 2024年~ | 「伝統的なヌックマム」専用国家標準の策定が議論中 |
| 2026年現在 | 全国共通の専用TCVNは正式成立を確認できず、議論が続く |
魚と塩から生まれた液体調味料は、長い時間の中で、日常の食べ物から税を取る産物へ、産物から広域商品へ、商品から大産業へ、戦時下の生活物資へ、科学で測る規格商品へ、そして地域文化として守る対象へと位置づけを変えてきました。
作り方は地域ごとに異なります。
木樽に仕込む地域もあれば、別の容器や攪拌を取り入れる地域もあります。原料魚、塩、熟成期間、抽出方法、cốt・long の扱い、味の方向性も違います。
ここまでの歴史から見えてくるのは、ヌックマムが地域ごとの製法を保ちながら、税制、交易、戦争、経済体制、科学、規格、知的財産制度の変化に合わせて、社会の中での位置づけを変えてきたということです。
現在確認できる約1,000年分の記録を通して見えてくるのは、ヌックマムが昔の姿をそのまま保存してきた食品なのではなく、社会や制度の変化に応じて作り方・流通・評価のされ方を変えながら、それでもベトナムの食文化の中に残り、「熟成」を続けてきた食品だと言えるのではないでしょうか。
現在進められている産地名や伝統製法の保護も、過去と切り離された新しい動きではありません。
品質、名称、産地、製法をどう守るかという、100年以上繰り返されてきた問いの続きが、現在の枠組みの中で問われているのです。
主な出典・参考:
『Đại Việt sử ký toàn thư』デジタル閲覧版
Cristoforo Borri, Relatione della nuova missione…(1631)
William Dampier, A New Voyage Round the World
Tuổi Trẻ Cuối Tuần「Nước mắm trong những mảnh sử rời」
Tuổi Trẻ「Phú Quốc, trăm năm nước mắm」
Liên Thành 公式「Lịch sử」
1914-1918-Online「Food and Nutrition (Indochina)」
Vo Phuc Toan & Nguyen Thi Anh Nguyet (2026), “Vietnamese Fish Sauce under Colonial Rule”
国立民族学博物館 石毛直道アーカイブ
Hải Phòng 市「Vạn Vân (?–1945)」
Hải Phòng 市党史資料 Cát Hải
Tuổi Trẻ「Nước mắm Phan Thiết thời bao cấp」
Tuổi Trẻ「Tìm đường xuất khẩu nước mắm」
VSQI TCVN 5107:2018
EU Phú Quốc PDO Single Document
ベトナム保健省 2016年ヌックマム検査結果
TCVN 12607:2019 草案に関する公式情報
2024年「Nước mắm truyền thống」TCVN 草案 意見募集
石毛直道「魚醤の起源と伝播」
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